【4-5】国家神道への道
2006/11/11:暫定版

はじめに

明治維新の当初の過程では、復古調の、それゆえ時代錯誤も甚だしい「祭政一致」の「王政復古」の理念が華々しく登場する。
それは宗教政策としては、主として「平田派復古神学」「平田派国学」が主導した「神仏分離」として表れる。
慶応から明治5、6、7年のほんの短期間、神仏分離は多分に「廃仏」の側面を持ちながら、神社の仏教からの独立・国家の管理下に入るという形で収束する。
それに比べて仏教は殆ど、変革期に何の主体的な働きもせず、またその変革を担う能力も意欲もないことを露呈したのみであった
むしろ逆に(大寺院あるいは権門寺院になればなるほど)過去の遺物・社会の寄生と見做されるもにであった。
一方、攻撃側の神道はといえば、これもお粗末というべきか、何の世界観・何の体系も持たず、仏教に代わって何等、変革期の精神的支柱となりうるような代物ではなかった。
この点では、仏教の足元にも及ばず、単に「情緒」の域から出ないその場凌ぎのものであった。
当然、その時代錯誤は時代の主流になりうるはずもなく、復古神道は没落する。

復古神道に代わり、明治政府が国民宣撫の方法としたものは何か。
それは「天皇」を中心とした「国家主義」という「理念」、「国家神道」とも言うべき「理念」であった。
神祇官復興、神仏分離の実行という文脈を生かし、神社への国家介入、神社の序列化などを通じ、天皇及び天皇制国家への絶対化・忠誠化に、国民を宣撫するものであった。
やがてこの「国家神道」は日清日露の戦役からあの15年戦争への道へと続くものであった。
そして戦後60数年を経た今日でも、この「国家神道」という亡霊は、恐ろしいことに、「靖国神社」が未だに護持されているなどという形で生きている。

国家神道への道

「神仏分離の動乱:臼井史朗、思文閣出版、2004 より

「神仏分離資料」による薩摩藩の寺院勢力
寺院総数 1,066ヶ寺(内訳:鹿児島城下・118ヶ寺、薩摩各郡・390ヶ寺、大隈各郡・318ヶ寺、日向各郡。240ヶ寺)
寺社領石高 15,118石(神社別当・3,372石、寺院・11、746石)
僧侶総数 2,964人
寺社宛経費(藩庫より・3,100石余、神社祭料・2、000石余、寺社用金銀銭・10,000両余、堂宇修繕費・20,000石余)
幕末薩摩藩87万石の内、実に寺社に対する費用は10万石を要していた勘定になる。
 上記は薩摩藩の例であるが、明治維新前までは、多かれ少なかれ、寺社を養うには多大な経費(経済的負担)がかかったということであり、ではそれに見あうだけの社会的貢献があったかといえば、疑問であろう。
少なくとも民衆にとっては多くの寺院や僧侶とは官僚であり、好感より反感の意識の割合の方が高かったとも思われる。

富山藩による合寺令
明治3年閏10月、突如「此度 朝廷より、万機厳律御布告も有之・・・一派一寺に御改正有之候條、迅速合寺可有之候、尤寺号之儀は、此迄通可相唱、若及違背候はば、規正之厳科に可被処候也」との布告が出る。
各宗で存続を許されたのは以下の通り
浄土宗(17ヶ寺のうち) 来迎寺、臨済(22ヶ寺)・曹洞宗(200ヶ寺) 光厳寺、天台宗(2ヶ寺) 円隆寺、真言宗(42ヶ寺)、真宗(1320ヶ寺) 常楽寺、日蓮宗(32ヶ寺) 大法寺
全くの暴挙であったが(武力も伴ったという)、明治4年廃藩置県、檀家70戸以上を持つ寺は合寺を解かれ、その後、70戸以下であっても合寺は解かれ、明治5年には収束 する。
 上記は藩(公権力)として、廃仏を推し進めようとした一例である。神祇官達やその意向を受けた地方官憲や国学者による個別の寺社の神仏分離(廃仏)とは多少趣が違うようで ある。少なくも、個別の寺社の事例では建前では神仏分離もしくは神仏判然の画策・動揺・混乱・破壊であったが、この事例では明らかに廃仏という方向性を持つもので あったのであろう。

佐渡の廃仏
当時のデータ:
戸数 18,811戸、人口 81,360人、寺院数 539ヶ寺
  (真言 306ヶ寺、天台 15ヶ寺、浄土 38ヶ寺、真宗 48ヶ寺、禅宗 65ヶ寺、時宗 14ヶ寺、日蓮 53ヶ寺)
単純計算では、「1ヶ寺ニ付、わずかに35軒弱ノ檀家ヲ有スルニ過ギズ、・・・仮ニ1ヶ寺僧2人ト見做セバ・・・人口75人ニ対スル僧1人ノ割合ナリ」と いうような状況だったと思われる。
これだけの寺院僧侶を養いながら、仏教(寺院・僧侶)はそれに答える自立した存在であったであろうか?。余りに長く安逸な生活に慣れ、民衆から見て無用な(むしろ有害な)存在に堕してはいなかったであろうか?。
これは佐渡だけでは無かったのであろうが、本質的な問いかけをしたと思われる。
かくして、明治元年、時の佐渡判事 奥平謙甫が強引な合寺を押し進める。
奥平の思考は典型的な文明開化論で、これまた明治初頭にして早くも絶対天皇制論を唱えている点が注目される。奥平は能吏であったし、また革命家でもあったのであろう。
仏教に対する雑言は多少割引としても、仏教界としても本質を衝かれたと云えよう。
当初の奥平の計画では佐渡539ヶ寺を80ヶ寺に統合するものであった。
 明治元年、奥平は諸宗本寺住職を集め、寺院統合の命令を伝える。
猶予は1ヶ月余りで、佐渡に本寺のある場合は全て本寺に、他国に本寺がある場合は、最寄の大寺に統合するべしというものであった。この間仏教は徹底的に批判され、実質全ての活動が停止された。
結果、真宗は48→23ヶ寺、浄土は39→13ヶ寺、法華は53→20ヶ寺、時宗は14→2ヶ寺、禅宗は65→18ヶ寺、真言は306→57ヶ寺、天台は15→2ヶ寺に統合 される。
なお、仏教側の以下の主体性をなくした現実も伝えられる。
諸寺では京都などの諸本山へ陳情の「使者」を派遣するも、その「使者」は物見遊山をするの道中であったと伝える。
また諸本山も諸本山で、陳情を受けてもまるで他人事のような対応しか取り得なかったと伝えられる。

隠岐の廃仏
佐渡以上に苛烈なものがあったと云う。
「仏像木像石像残らず御首を落とし・・・寺僧は村方より帰俗の対談相済、・・・諸宗在家一同、仏壇を改め、・・・・(仏具その他諸々)・・悉皆焼捨申候・・・」仏像には糞尿をかけ、広場に集め経巻とともに焼き捨てたという。
幕末から明治にかけて隠岐の支配機構は定まらず、世情は混乱し、加えて平田派国学の影響も強く、破壊的な世情が醸成されている上に、新任知事真木真人の主導もあり、これ等があいまって破壊的な廃仏に至ったと思われる。背後には仏教への「反感」もあったものと思われる。その後仏教の復興までには相当の年月を要したという。

土佐の廃仏
神仏分離令とともに、多くの僧侶は進んで改宗し、あるいは還俗し、あるいは神官に転身し、あるいは帰農あるいは教員になっていったという。士族たちは祖先の祭礼を進んで神式に改めた。この背景には仏教は何の影響力もないような骨抜き状態であったことと水戸学などが知識人の中に浸透していて、廃仏・崇神に改めるに何の抵抗も無かった風土であったようです。
寺院総数615ヶ寺の内廃寺は439ヶ寺(真言186ヶ寺、曹洞98、真宗8、日蓮6ヶ寺その他)で実に7割が廃寺という。
藩主山内家菩提寺住職は真っ先に神官となり、神道の布教に当ったという。(この項不詳)また僧侶の方でも密かに什宝を売払いあるいは再建資金を持ち逃げしたり、神社に衣替えしたり・・で計算高かったとも伝える。

三河大浜
明治3年9月、菊間藩(千葉県)三河・大浜出張所(現碧南市)に服部少参事(服部某)が赴任、寺院の統廃合を画策。
服部某は篤胤門下で、廃仏毀釈は千載一隅の好機であったのであろう。
真宗の名刹を献納させて学校にし、廃仏の教育を始める。教科書は篤胤の「出定笑話」であったと云う。本尊に替えて篤胤の塑像を祀り、歴代の天皇を拝む「天拝」天照大神を拝む「日拝」を強要し、神前にての念仏の禁止など の布告を出す。
さらには廃寺合寺の命令を出す。
大浜は強固な真宗の地盤であった。あまりの無理・無慈悲に対し、ついに真宗の僧俗は決起する。藩と戦い、結局は官憲に弾圧されるが、護法一揆というべきものであった。

越前の暴動
明治6年、ここも強固な真宗の基盤である越前の各所で「南無阿弥陀仏」の幡を押し立てた一揆が勃興し、一揆の数はおそらく数万人にも及び、放火略奪の限りを尽したという。一つには漠然とした不安(耶蘇教に対するデマ)に対する反発の気分であり、もう一方では反政府的な暴動でもあったようです。暴動は鎮静化せず、明治6年、ついには名古屋鎮台からの出兵が要請され、漸く鎮台兵によって鎮圧される。結果は多くの捕縛者と処刑者を出す。
しかしその本質は断髪・洋服・洋学・ヤソ・新暦・戸籍・地券などという新しい制度に対する不安と反発がその原動力であり、宗教一揆とはほど遠いものであった という評価が後には下される。

国家神道への道
【4-2】その1:神仏分離・廃仏毀釈の歴史経過
【4-3】その2:神仏分離・廃仏毀釈の思想背景
の後半部分(明治56年以降)が「国家神道への道」の部分にあたるが、ここに要約すると、
江戸幕府から朝廷に名を借りた倒幕勢力への権力移行期である慶応4年の「神仏分離令」に端を発し、時代は廃仏へと急展開してゆく。
新政府の忠実な官僚(平田派国学者や復古神道家や尊王家も多かったようですし、当然能吏で計算家でもあったであろう)は王政復古・祭政一致政策を(平田派などは好機到来として)結局は極端な廃仏を押し進めていった。
しかしながら、その前に権門と言われる寺院では僧侶(社僧)自らが、自らを壊してゆく(還俗し神官になる)、自壊作用が顕著に表れた。これほど無責任でこれほど世俗的な世界があったであろうか。
ともあれ明治新政府の宗教政策は神道を政治的統一の手段として使おうというものであった。
しかしこの根底にある祭政一致などという代物は余りに前近代的であり、また神道自体も何等の指導理論も体系も持たない気分みたいな代物でしかなかった。幕藩体制の打倒という点で、平田派国学はプロパガンダとしては一時の役に は立ったが、時代の役に立たないという点では同一で、遅かれ早かれこういう時代錯誤の政策が転換を迎えるのは時間の問題であった。
 ※神仏分離の過程の中で、僧侶自らが主体をなし、あるいは僧侶自らが寺院什宝を私物化し、また平田派国学者・復古神道家が喜々として、連綿と受け継いできた伝統や堂塔・仏像・絵画・経典・書籍等をゴミのように破壊し焼却し二束三文で売払った行為があったことは忘れてはならないであろう。

明治4年8月神祇官を神祇省に(格下げ)、
明治5年3月神祇省廃止、教部省設置。祭典は式部寮に、宣教は教部省教務職に属す、教導職を設置。
教導職は神官4204名、僧侶3043名(計7247名)の神仏混淆で、3ヶ条の教訓(布教の基本原則)が示された。
1.敬神愛国の旨ヲ体スヘキ事、2.天理人道ヲ明ニスヘキ事、3.皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムヘキ事
 ※国家神道の萌芽とも云えるであろう。
明治6年1月大教院開院(仏教側の請願によるとされる。)
まさしく神仏混淆の噴飯ものであり、その珍妙さの故に、長続きをするはずもないものだった。
「芝増上寺仏殿を改めて大教院となし、之に祭るに四神を以ってし、注連を飾り、・・・」
神と仏の混淆、政治と宗教の混淆では上手くゆくはずも無かった。
明治8年4月大教院廃止、明治8年5月教導職廃止
明治10年1月教部省廃止、あけなく神仏分離令に始まる大混乱は終焉する。
(各宗派は各宗派の責任において布教勝手たるべし・・となる。)

一方
天皇を中心に据える中央集権国家を目指す国家指導部は神道に対する梃子入れを強め、神道を国家統一の手段としての政策を遂行していった。
・神社の格付け(組織化・中央集権化・統制)
 伊勢神宮−官幣社(大・中・小・別格、神祇官・皇室から奉幣)−国幣社(大・中・小、国庫幣帛)−府・藩・県・郷・村社
  皇室の祖先?の伊勢、皇室に関係ありとでっち上げられたまた都合の良いもの政策上意味があるもの
  (霧島・天孫降臨、香椎・仲哀天皇、宮崎・神武天皇、橿原・神武天皇・・・)が官幣社に名を連ね、
  天皇の忠臣とされる朝臣・武将までも別格官幣社として祀られる。(淡山、護王、建勲、豊栄、常盤、照国・・)
 明治20年頃までに天皇(或は国家)の忠誠度の尺度による、全国的な神社の組織化・体系化は完了していった。
 要するに、形の上では、民間信仰も神話の神々も八幡大菩薩も武将も朝臣も古来からの津々浦々の神々も天皇
 あるいは国家を頂点としたヒエラルキーに組織化されたということであろう。

明治22年帝国憲法発布
発布に先立ち、明治天皇は賢所の歴代天皇霊に向かって告する。※1
「皇朕レ謹ミ畏ミ 皇祖 皇宗ノ神霊ニ告ケ白サク皇朕レ天壌無窮ノ・・・・」
我は日本統治の大権を皇祖皇宗の神霊から受けつぐものである、汝臣民はこの神聖な天皇の命に従うべし・・・※2
第一条:大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第三条:天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
 ※ここに国家神道(天皇教)が宣言されたと解釈されるべきであろう。

明治23年教育勅語発布
 教育ニ関スル勅語
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニコヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シコ器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其コヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

    明治二十三年十月三十日
                御名御璽

(朕惟ふに
我が皇祖皇宗國を肇むること宏遠に徳を樹つること深厚なり
我が臣民克く忠に克く孝に億兆心を一にして世世厥の美を濟せるは此我が國軆の精華にして教育の淵源亦實に此に存す
爾臣民父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し朋友相信じ恭儉己れを持し博愛衆に及ぼし學を修め業を習ひ以て智能を啓發し徳器を成就し進て公益を廣の世務を開き常に國憲を重じ國法に遵ひ一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし
是の如きは獨り朕が忠良の臣民たるのみならず又以て爾祖先の遺風を顕彰するに足らん
斯の道は實に我が皇祖皇宗の遺訓にして子孫臣民の倶に遵守すべき所之を古今に通じて謬らず之を中外に施して悖らず
朕爾臣民と倶に挙挙服膺して咸其徳を一にせんことを庶幾ふ)    明治二十三年十月三十日    御名御璽)

  ※この教育勅語は国家神道(天皇教)の経典というべきものであろう。
   この経典は一方的に述べる。
   「我が臣民克く忠に克く孝に億兆心を一」にするのが「此我が國軆の精華」であり
   「一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼」することが義務である。
   これらは「實に我が皇祖皇宗の遺訓にして子孫臣民の倶に遵守すべき所」と神の託宣の形式をとる。

※1)告文

皇朕レ謹ミ畏ミ
皇祖
皇宗ノ神霊ニ誥ケ白サク皇朕レ天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ宝祚ヲ継承シ旧図ヲ保持シテ敢テ失墜スルコト無シ顧ミルニ世局ノ進運ニ膺リ人文ノ発達ニ随ヒ宜ク
皇祖
皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ条章ヲ昭示シ内ハ以テ子孫ノ率由スル所ト為シ外ハ以テ臣民翼賛ノ道ヲ広メ永遠ニ遵行セシメ益々国家ノ丕基ヲ鞏固ニシ八洲民生ノ慶福ヲ増進スヘシ茲ニ皇室典範及憲法ヲ制定ス惟フニ此レ皆
皇祖
皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スルニ外ナラス而シテ朕カ躬ニ逮テ時ト倶ニ挙行スルコトヲ得ルハ洵ニ
皇祖
皇宗及我カ
皇考ノ威霊ニ倚藉スルニ由ラサルハ無シ皇朕レ仰テ
皇祖
皇宗及
皇考ノ神祐ヲ祷リ併セテ朕カ現在及将来ニ臣民ニ率先シ此ノ憲章ヲ履行シテ愆ラサラムコトヲ誓フ庶幾クハ
神霊此レヲ鑒ミタマヘ

※2)憲法発布勅語

朕国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣栄トシ朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ現在 及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス
惟フニ我カ祖我カ宗ハ我カ臣民祖先ノ協力輔翼ニ倚リ我カ帝国ヲ肇造シ以テ無窮ニ垂レタリ此レ我カ神聖ナル祖宗ノ威徳ト並ニ臣民ノ忠実勇武ニシテ国ヲ愛シ公ニ殉ヒ以テ此ノ光輝アル国史ノ成跡ヲ貽シタルナリ 朕我カ臣民ハ即チ祖宗ノ忠良ナル臣民ノ子孫ナルヲ回想シ其ノ朕カ意ヲ奉体シ朕カ事ヲ奨順シ相与ニ和衷協同シ益々我カ帝国ノ光栄ヲ中外ニ宣揚シ祖宗ノ遺業ヲ永久ニ鞏固ナラシムルノ希望ヲ同クシ此ノ負担ヲ分ツニ堪フルコトヲ疑ハサルナリ

朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ万世一系ノ帝位ヲ践ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ其ノ康福ヲ増進シ其ノ懿徳良能ヲ発達セシメムコトヲ願ヒ又其ノ翼賛ニ依リ与ニ倶ニ国家ノ進運ヲ扶持セムコトヲ望ミ乃チ明治十四年十月十二日ノ詔命ヲ履践シ茲ニ大憲ヲ制定シ朕カ率由スル所ヲ示シ朕カ後嗣及臣民ノ子孫タル者ヲシテ永遠ニ循行スル所ヲ知ラシム
国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ朕及朕カ子孫ハ将来此ノ憲法ノ条章ニ循ヒ之ヲ行フコトヲ愆ラサルヘシ
朕ハ我カ臣民ノ権利及財産ノ安全ヲ貴重シ及之ヲ保護シ此ノ憲法及法律ノ範囲内ニ於テ其ノ享有ヲ完全ナラシムヘキコトヲ宣言ス
帝国議会ハ明治二十三年ヲ以テ之ヲ召集シ議会開会ノ時(明治23年11月29日)ヲ以テ此ノ憲法ヲシテ有効ナラシムルノ期トスヘシ
将来若此ノ憲法ノ或ル条章ヲ改定スルノ必要ナル時宜ヲ見ルニ至ラハ朕及朕カ継統ノ子孫ハ発議ノ権ヲ執リ之ヲ議会ニ付シ議会ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スルノ外朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ
朕カ在廷ノ大臣ハ朕カ為ニ此ノ憲法ヲ施行スルノ責ニ任スヘク朕カ現在及将来ノ臣民ハ 此ノ憲法ニ対シ永遠ニ従順ノ義務ヲ負フヘシ
    御名御璽
        明治二十二年二月十一日

 

明治憲法・教育勅語とここまで来れば、「靖国への道」も「大東亜戦争への道」も、そんなに遠い道ではなく、殆ど同質の道であったのではないだろうか。

 

以上のような「国家神道への道を探る」という意味合いで、手元に以下の資料を準備するも、未整理。
 ※機会があれば、要約を予定。

「明治初年の政府と神仏ニ教」神習教管長・吉村正乗談、大正元年佛教史学第2編第5号所載(「明治維新神仏分離資料」)
「神仏分離と神官僧侶」修多羅亮延談、明治45年佛教史学第2編第1号所載(「明治維新神仏分離資料」)
(C)「現代神道研究集成(三)」神道史研究編2、神社本庁、平成10年
(D)「現代神道研究集成(七)」神道思想研究編、神社本庁、平成11年
「靖国神社」大江志乃夫、岩波新書、1984
「国家神道と日本人」島薗進、岩波新書、2010