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重松研究室

室長(重松敏則)経歴CAREER

1945年6月15日 終戦の2か月前、疎開先の愛媛県桑郡丹原町(現:西条市)田滝の里山の麓の防空壕で生まれる。
小児喘息のため、祖父母に預けられて、里山や小川・池、里海に遊び、鶏や牛に親しむ。
1951年4月 大阪市立深江小学校に入学するも喘息がひどく、転地療法のため、故郷の田滝小学校2年生に編入学。
4年生の2学期より、家族が白砂青松の海浜と見渡す限りの田園地帯に引っ越したため堺市立三国ヶ丘小学校に編入学。
1957年4月1日 堺市立三国ヶ丘中学校に進級するも、白砂青松の砂浜が埋め立てられて石油コンビナートになり、大気汚染のため喘息に苦しめられる。
1960年4月 大阪府立泉陽高校に入学し、美術部で油絵や木刻に我流でいそしむ。
しかし、厳しい喘息の発作の頻発のため、2年生より1年間休学して、愛媛の故郷で祖父母と暮し、ウサギの飼育やスイカ栽培にクワをふるい、身体を鍛える。
1962年4月1日 泉陽高校に復学し、美大を目指してデッサンに取り組む。また、母の知人より府立大農学部に造園の分野ありと聞き、志望するが、入試の際に
インフルエンザによる高熱のため、受験するも不合格で浪人し予備校に通う。
1966年4月 大阪府立大学農学部園芸農学科園芸コースに入学。
海外農業研究会に入会し、身体を鍛えるために、1年生の夏休みは六甲山の遊園地で土方作業の合宿(50日)に参加。
また、2年生及び3年生の夏休み中は西表島のパイナップル農園で、苗の植付けや収穫作業の合宿に携わり、得られた賃金で八重山諸島や沖縄本島を旅行。
この他、春休みや冬休みは、造園設計事務所や鉄工所、測量助手等のアルバイトで、北海道や東北地方、信州などへの旅費を稼ぐ。
1969年4月1日 西表島の自然にハマり込み造園学研究室の高橋理喜男先生に頼みこんで、卒業論文は「西表島の自然保護」をテーマとし、テントや蚊帳、
炊事用具などキャンプ用品、ならびにゴムボートを購入してもらって、調査団を結成し、現地調査を遂行。成果をまとめて卒業審査発表。
1970年4月大阪府立大大学院農学研究科修士課程入学。
「西表島の自然植生の保護および景観保全に関する研究」をテーマに、植生調査や屋敷林の調査を継続。 
1971年には厚生省自然保護局(現:環境省)の専門調査団に参加し、宮脇昭先生の植生班に所属して、沖縄復帰後の西表島国立公園の指定
に向けたプロジェクトに参画。成果をまとめて修士論文審査発表。 
1973年4月 研究生として造園学研究室で里山・里地の植生調査に携わる一方、公務員試験に挑戦。奈良県庁観光課に内定。
1974年1月1日 株式会社プレック研究所の設立にともない、主任研究員として入社を請われ、東京に赴任。
環境庁の「第1回緑の国勢調査のプロジェクトや国立公園の現状調査、無人島の「冒険の島」としての計画設計プロジェクトに携わる。
業務はやりがいがあるも超多忙で、喘息の発作や自然気胸を患い、呼吸困難のため1975年6月に退社。
1975年9月 長野県須坂市で静養の後、大阪府立大学農学部造園学研究室に助手として赴任。燃料革命により密生するままに管理放棄された里山(二次林)
の望ましい植生管理の在り方に関する研究・実験に着手。データの収集に長年月を要するため、都市化による農地の保全や住民の意向、
生ゴミ埋立地のメタンガス発生地での緑化対策に関わる実験、幹挿し(丸太挿し)による里山型樹林復元の実験・研究などにも携わる。
1987年3月1日 博士論文「レクリエーションを目的とした二次林の改良とその林床管理に関する生態学的研究」を提出・審査により、農学博士の学位を取得。
1988年 これまでの里山林(旧薪炭林・雑木林・アカマツ林→二次林)での成果が評価され、新たな研究の展開の契機となる
富士フィルム グリーンファンド(FGF)への研究助成申請、「市民による雑木林の保全・ 管理」のテキストづくりが採択される。
1989年5月1日 「二次林のレクリエーション的活用に関する生態学研究」の 発行(紀要)に対して、日本造園学会論文賞を授与される。
1990年4月 文部省の在外研究員として、ロンドン大学ワイカレッジで客員研究に携わる
(9か月)。
同年11月に大阪府立大学農学部講師に任用。
1991年4月1日 FGFの助成に基づく、一連の募集による活動試験から(大阪自然環境保全協会会員の協力を得る)、市民の大きな参加意欲と潜在能力を明らかにし、成果を
「市民による里山の保全・管理」のタイトルで刊行(信山社 サイテック)。
1992年10月 シンポジウム「生き物と共生するまちづくり・里づくり 〜地球環境時代におけるビオトープの保全と復元をめざして〜」を実行委員会代表として、
自然環境復元研究会および公益社団法人大阪自然環境保全協会の主催で開催し、
約1,000人の参加者を得る(豊中市市民会館大ホール)
1993年6月1日 文部省科学研究費助成申請テーマ「里山・田園環境の保全活動をベースとした環境教育と市民参加のシステム開発」が採択され、既に設立
していた「はしもと里山保全アクションチーム(和歌山県橋本市)」と、「神立里山保全プロジェクト(大阪府八尾市)の活動を発展させ、動態調査する。
また、1994年7月と8月には、英国の BTCVとの連携協力のもとに、橋本市と八尾市の里山・里地で、それぞれ9泊10日間の
「日英合同里山・田園保全ワーキングホリデーを開催。
1994年4月 九州芸術工科大学(現:九州大学芸術工学部)環境設計学科教授に赴任。学部講義・演習科目として「環境保全論」および「自然環境復元論」、
「環境デザイン基礎演習、外書講読、卒論指導等を担当、
また大学院講義・演習科目として「環境保全特論T・U」、環境計画設計プロジェクト演習、同特別プロジェクト演習等を担当する。
1995年7月1日 高知県安芸郡中土佐町で、BTCVとの連携によりシンポジウムと第3回日英合同里山・田園保全ワーキングホリデーを地元の保全活動団体との協力で開催。
また、1996年には兵庫県八鹿町(現:兵庫県養父市)でBTCVと兵庫県農林水産部との連携で、国際シンポジウムと第4回国際里山・田園保全ワーキングホリデーを開催。
1995年9月 1994年に設立された山村塾(福岡県八女郡黒木町:現:福岡県八女市,有機農林家と都市の消費者との連携・交流団体)に依頼され、
台風によるスギ林風倒被災地での広葉樹苗木の植樹後の生長診断と樹種の是非について観察・提言。 
これを機に、国際里山田園保全ワーキングホリデーの継続的な開催を打診。
ゼミ生を兵庫県での同ワーキングホリデーに派遣し、参加体験させる。
1997年9月1日 九州芸術工科大学環境設計学科 重松研究室と山村塾、BTCVを中心にワーキングホリデー開催実行委員会を設立し、第5回国際里山・田園保全ワーキングホリデーを、農林体験交流施設「四季菜館」を合宿拠点に遂行。
以後、毎年恒例の事業として開催を継続。
2002年5月 文部科学省科学研究費助成申請「農林体験の内容及び時間的濃度が青少年の環境認識・景観認識・連帯意識に及ぼす効果」が採択され、
四季菜館を合宿試験調査拠点に研究プロジェクトを遂行。
2003年10月1日 九州大学と九州芸術工科大学との統合により、
九州大学大学院芸術工学研究院教授に就任。
2004年3月 地域研究のフィールドとしてきた、福岡県八女郡黒木町笠原地区の「笠原東小学校」が過疎による生徒数の減少により閉校となる。 
校舎や運動場の有効活用として、都市農村交流施設としての利用の打診を受け、黒木町と九州大学芸術工学部環境設計学科とが、相互協力の覚書を交わす。
2005年4月1日 閉校舎の活用に対する地域住民の認識を励起し、また都市住民に対する地域への訪問と愛着を醸成するため、チェロとピアノのデュオ、
ならびに重松の里山トークによる「よみがえれ ふるさと里山コンサート」を、
主催:黒木町,公益財団法人国土緑化推進機構,里山コンサート実行委員会、
共催:九州大学大学院芸術工学研究院,BTCV,山村塾、
後援:環境省,福岡県,福岡県教育委員会などにより、
旧笠原東小学校体育館で開催。盛況をはくす。
2005年5月 文部科学省科学研究費助成申請「農山村の地域資源を活用した環境共生教育に関する拠点形成プログラムと情報システム」が採択され、笠原東交流センター(旧笠原東小学校)」を合宿試験調査拠点に研究プロジェクトを遂行。
合宿を通し、再生可能な自然資源の持続的な活用を体感し、ライフスタイル転換の契機となることを意図し、太陽光発電バネル、小型風力発電機、学生との手作りによる五右衛門風呂と脱衣小屋の建設、オガクズバイオトイレの作製のほか、布団や炊事用具、鋸・剪定鋏・ナタ、クワなど購入・整備する。 
2007年3月1日 笠原東交流センター「えがおの森」オープン記念として、チェロとピアノのデュオ及び重松の里山トークによる「里山コンサート」を、
主催:笠原里山振興会,黒木町、共催:九州大学大学院芸術工学研究院,山村塾、
後援:環境省九州地方環境事務所,福岡県,福岡県教育委員会などにより、
笠原東交流センター体育館で開催
2009年3月 九州大学大学院芸術工学研究院を定年退職。九州大学名誉教授に認定される。
2009年8月1日 NPO法人日本環境保全ボラティアネットワーク理事長に就任。現在に至る。

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