亭主の寸話55 

『食べ物の始め、その5』 

「佃煮、梅干、砂糖、酢」

 

私たちが日頃何気なしに食べている身の回りの食べ物にはどんな歴史が秘められているのだろうか、そんな起源探しをしてみたいと思った。

@                  佃煮 佃煮誕生には徳川家康が大きくかかわっている。家康は1590年に江戸に入って街作りにとりかかり、江戸湾を埋め立てて各地の商工民を招きいれた。そんな中で当初は幕府が調達する魚を確保することが難しかった。そこで家康は、かつて摂津の住吉神社に詣でたときに船を出して手助けしてくれた摂津西成郡佃島の漁師34人を江戸に呼び寄せて将軍家のお抱え漁師として江戸前の白魚などの漁にあたらせた。彼らは最初、安藤対馬守の屋敷内に居住していたが、墨田川河口にある石川島南側の干潟を埋め立てそこに移住させられたので、そこを佃島と名づけて住み着いた。佃島の漁師たちは家康の命により伊勢湾から白魚の種を移して繁殖させた、といわれている。白魚は佃島漁民によって、旬である1220日ごろから33日の節句まで、毎日将軍家の食膳用に江戸城に献納する決まりであった。徳川将軍家は白旗の源氏の流れとされており、そのことから白い魚を好み、さらに頭に葵の家紋に似た斑点があるところから特に白魚を珍重したのだと言われている。将軍家に献上した余りは市中に販売して佃島漁民たちの大きな収入源となっていた。有名な歌舞伎『三人吉三廓の初買』での大川端での有名なお嬢吉三のセリフに『月もおぼろに白魚の かがりもかすむ春の空、、、』というのがある。春の季節の白魚は江戸の庶民の情景の中に溶け込んでいたといえるでしょう。隅田川で捕れ過ぎた雑魚を味付けして煮詰め保存食としたのが「佃煮」の始まりである。その後、参勤交代の下級武士たちが江戸土産として佃煮を郷里へ持ち帰り全国に広がっていった。

 明治10年の西南戦争の時には政府軍から軍用食として多量の佃煮製造が命じられ、明治27年の日清戦争でも多量の佃煮製造が行われ、戦後帰国した兵士は戦場で食べた江戸前佃煮になじんでいたために一般家庭の食卓に上り、急速に広まっていったようである。

 堀 和久 『江戸風流「食」ばなし』 などより

 

A                  梅干 梅の原産地は中国長江の中下流域とされている。中国では古くから寒さの中を他の花に先駆けて咲く梅を特に好んで詩などに詠んでいた。その頃は、梅干は梅酢を作ったときの副産物であり、もっぱら漢方薬として利用されていた。わが国へ渡来してきたのは弥生時代に水田稲作とともにもたらされたと考えられている。万葉集の時代から花の美しさを好んで歌に詠んでいる。平安時代には村上天皇が梅干で病気を治したとも伝えられている。また、菅原道真が梅の花を愛していたことは有名だが、道真が梅干を食べていたかどうかは定かでない。梅干は平安時代初期にまとめられた書物に「塩梅」との文字があることから奈良時代後期には既に作られていたと思われるが、この頃はまだ塩の製造量も少なく、上流貴族や寺社などごく限られた範囲に留まっていたであろう。ただ、クエン酸を主成分とする梅酢は金属の鍍金や酸化皮膜処理による防錆処置として古くから使われており、東大寺の大仏の鍍金にも用いられた、とされている。

平安時代から鎌倉時代にかけての風習や礼儀作法を書いた「世俗立要集」によると、梅干が承久の乱以降に広がっていった、という記事がある。承久の乱とは、1221年に鎌倉幕府と朝廷の間で起こったもので、平家滅亡後の武家の勢力拡大に不満を持っていた後鳥羽上皇が京都周辺の武士に恩賞を約束して兵を起こしたが、北条正子の下に団結した鎌倉軍に破れたものである。このときに梅干入り握り飯が幕府軍に配られ、これをきっかけで梅干が普及していったとされている。この頃の関東軍の武士の間では、戦闘時には指揮官も一介の武士も心をひとつにするために同じ食事をすることが望ましいと考えられていたが、梅干入り握り飯は粗末過ぎず、贅沢すぎず、ちょうど良い食事となったようである。

    有岡利幸 「梅干」 などより

 

B  砂糖 人類最初の甘味料はハチミツであり、その養蜂技術がすでにローマ時代に生まれている。砂糖の原産地はニューギニアとされており、ここから人の移動と共に各地に広まって行った。中国へは唐の太宗、李世民(598-649)の時代にインド王からの貢物として始めて砂糖が献上された。やがて中国でも砂糖作りが始まり、それらは仏教と共に広まっていったようである。日本に砂糖を持ち込んだのは754年に来朝した唐僧の鑑真である。このときの砂糖は孝謙天皇に献上されたものであるが、それ以降中国から砂糖が少しずつ輸入されたようである。砂糖が日本に持ち込まれる以前のわが国の甘味料は、蜂蜜、蘇(そ)、甘葛(あまずら)、飴などであり、諸国からこれらを貢進していたことが記録されている。なお、蘇とは動物の乳から酪を作り、酪から蘇を作り、蘇から醍醐(だいご)を作ったとされている。「醍醐」とは酪の精汁で、蘇の上に浮かぶ油のようなもので甘味があり、これを「醍醐味」とした、としている。

平安時代になると唐から帰朝した最澄が持ち帰った品物の中に「砂糖」が記載されている。室町時代中期になると琉球国からも輸入するようになり、さらに大航海時代を迎えポルトガル人やオランダ人がわが国に砂糖を持ち込むようになった。当時はまだ非常に高価であり、一般の人の口には入らなかった。15694月ルイス・フロイスが二条城で織田信長に謁見したときの贈り物にガラス瓶に入った「金平糖」があり、信長がわが国最初に金平糖を味わった人物ということになる。

日本で最初に砂糖が栽培されたのは1600年頃であり奄美大島の直川智が南シナ海で漂流したときに砂糖キビの苗と栽培方法を持ち帰ったといわれている。平賀源内は長崎で学んだ知識をもとに砂糖の精製を考えて「白砂糖」の誕生に貢献している。

江戸時代になると海外からの主要な輸入品のひとつに砂糖があげられるようになり、大量の砂糖の流入は砂糖を使った和菓子の発達をもたらした。しかし高価な砂糖の輸入を支えていたわが国の金銀の産出量も17世紀には枯渇してしまう。そのため将軍徳川吉宗をはじめとする各藩はサトウキビの栽培を奨励し、砂糖の国産化が図られた。そんな中で高松藩が白砂糖の生産を伸ばし、隣の阿波藩とともに高級砂糖菓子「和三盆」の主な産地となり、現在もその面影を残している。

エリザベス・アボット著、樋口幸子訳 「砂糖の歴史」

伊藤 汎 監修 「砂糖の文化誌」  などより

 

C                  酢 人類が始めて作り出した調味料が「酢」だったと言えるであろう。もちろん酢が使われるよりもはるか昔から塩が調味料として使われているが、これは海水、岩塩から取り出したものであり、発酵して作り出す食酢とは次元が違う。「酢」は人が果実などを貯えておいたのがアルコール発酵し、さらにこれに菌が働きかけて酢が出来るのである。この一見アルコールから較べると腐ったものであるかのような酢で食べ物に味をつけるという冒険はすごいもので、人類のあくなき探究心を端的に表している。

現在、最も古い酢についての記述は、イスラエル人をエジプトから引き連れていったイスラエルの指導者モーゼの言葉を書いた中に「酢」という言葉が使われているらしい。また、旧約聖書「ツル記」の中にも、酢で作った冷たい飲み物をもらう場面が出てくる。

日本でも同じように太古の時代から酢が使われていたものと思われるが、文献として残っているのは応神天皇(369404)の頃に酒造りの技術と前後して中国大陸から酢を作る技術も渡来したという記録がある。これは当時の文化の中心地だった、当時は「和泉の国」と呼ばれていたところで造られ、「いずみ酢」または「辛酒(からさけ)」という言葉で古文書に残っている。そして大化の改新(645)で中央集権国家が出現し、その大宝律令の中に『造酒司(みきのつかさ)』があり、これが酒、甘酒、酢を造る仕事とされている。平安時代の「延喜式」によると、この頃には米酢、酒酢、梅酢、菖蒲酢、雑果酢などがあったようだ。室町時代になると酢を使った調味料の範囲も広がり、酢味噌、わさび酢、しょうが酢味噌、さんしょう酢味噌、くるみ酢、からし酢、ぬた酢などといった「和え酢」が出てくる。

酢という字は酒へんがついているように、酢は酒から作られるが、慶長年間に清酒が出来上がるまでの酒は濁り酒であった。清酒の元祖についてはいくつかの説があるが、摂津河辺郡の鴻の池に伝わる記録によると『鴻の池家の先祖、山中勝庵の雇人が主人に仇をするつもりで醸造桶の中に火鉢の灰を投げ込んで逃げた。そこで偶然に清酒が出来たのだ』、とされている。後に酒粕を原料とする粕酢や米、麹を原料とする米酢が造られるようになる。江戸時代には紀伊国粉河、和泉国堺が代表的な産地となっていく。

河野友美 「酢の百科」などより

 

この他の食べ物、たとえば豆腐天ぷら味噌納豆チョコレートなどの始まりについては別に書いたコラムを参考にしていただきたい。

 

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