亭主の寸話37 『てんぷらの始まり』 

 

 私は約40年間を食用油脂のメーカーで過ごしたので私の周辺には絶えず大勢の技術者たちが毎日てんぷらの調理実験に励んでいました。彼らはてんぷら専門店の職人さんたちにより新しい天ぷらの提案をするために、そのデーター作りに朝から天ぷらを揚げているのです。だから自ずと天ぷらについて耳年寄りになってくる。今回は皆さんが知っているようで知らない天ぷらについてお話しようと思います。

天ぷらは寿司、蕎麦、うなぎと並んで今や国民的食品となり、日本中至る所で見かけられるほど普及しているが、じつは分からないことの多い不可思議な食べ物なのです。「てんぷら=天麩羅」ってどうしてこんな名前がついているのでしょうか、どこで生まれた食べ物なのでしょうか、まずはここから話をはじめましょう。

といっても結論から先に言ってしまうと、天麩羅の起源はよく分かっていないのです。どのような食べ物でも同じだが、日常的な食べ物はなかなか記録として残らないのが普通です。「天ぷら」って言葉はどこから来たのだろうか。天ぷらの語源論争は江戸時代から始まり現在も続いているといういわくつきのテーマである。天ぷらの名前は江戸中期に突如として登場してきてそのまま定着してしまうという謎に満ちた食べ物なのです。いろいろな本を見ても、天麩羅について書かれた最初の本は1748年に発刊された『歌仙の組糸』のようです。これは江戸時代の料理書ですが、ここに「天ぷら」という言葉と作り方が書かれている。もちろんこのときに書かれたということは、それ以前に既に天麩羅という食べ物が存在していたことになるが、それはいつからかは不明である。どうも天ぷらの歴史をさかのぼると1700年代前半には天ぷらという言葉には進歩的な響きが含まれていたとみえて、現在の天ぷらとは似てもいない食べ物にも使われていたようで、例えばナスの煮物などにも使われていた時代があったようです。しかし、1764年以降になると現在のものと同じように衣揚げだけを天麩羅と呼んでいたようだ。この時期から後には天麩羅についての本が次々と出てくるので、ここら辺りが天麩羅のスタートかな、と見ている人が多い。

では、天麩羅という言葉はどこからきたのか、一番有名な話が江戸時代の戯作家である山東京伝(17611816)が命名したという話であるが、これは多くの人に否定されている。京伝の弟の京山が「天竺浪人が大阪より江戸へぷらりと来て、魚類に衣をかけた油揚を商うので『天麩羅』という名を山東京伝が初めてつけた」と書いている。しかしそれ以前にも「天ぷら」という言葉は確認されており京伝一流の遊びではないか、と見られている。しかしこの天麩羅という言葉、漢語としても日本語としても不可解であり、外国語に当てはめたのではないかという意見が主流になっている。では、どの国の言葉だったか、ここでも諸説入り乱れる。

中国の古い料理で肉の油揚の『塔不刺(タアフラ)』からではないか?

油料理で使う油を『天麩羅(アブラ)』と書いたのではないか?

スペイン語、イタリア語の『テンプロ(寺)料理』から来たのではないか?

ラテン語で混合や撹拌の言葉がスペインに渡って『テンプラ』か?

英語で画家が卵白と絵の具を混ぜた『テンペラ』からか?

ポルトガル語の『temporaテンポラ(断食の日)』からか?

ポルトガル語の『temperoテンペロ(調理)』からか?

ポルトガル語の豆を卵とうどん粉につけてフライにする『temperaテンプ

ーラ』から来たのではないか?

などさまざま。今ではポルトガル語から来た言葉とする説が有力のようであるが、いまひとつ確実視されるところまでには至っていない。

ポルトガル説ではこのように主張している。1543年にポルトガル人が九州の種子島に漂着して鉄砲を伝えて以来、開港場となった長崎にはポルトガル人スペイン人が相次いで来航して南蛮料理が伝えられるようになる。このなかにキリスト教の宣教師が油を使った料理を寺料理の意味でテンポラと言ったとしても不思議ではない。4つ足料理を嫌った日本人がこの料理を魚で応用して発展したのではないか、というのである。魚介類を油で揚げる料理はそれまでの日本にはなかったものだったです。

このようにしてこの地で発展していったのが「長崎しっぽく料理」であり、一般の家庭料理として浸透していった。しかしそれは油料理としての大まかな捉え方であり、その中身は各家庭によって異なっているが、この料理の中にころもに砂糖を入れたテンプラが組み入れられている。

一方、今から355年前(1655)に中国福建省から隠元禅師が招かれて京都黄檗山万福寺に来られるが、このとき隠元禅師は黄檗風の寺料理をもたらした。これが「普茶料理」である。私も中山道を踏破した翌日、仲間と一緒にこの寺で普茶料理をいただいたことがある。普茶料理は、寺料理であるために精進料理であるが、その特徴はテンプラの衣が厚いことであろう。その食べ方は一度に沢山のテンプラを作っておき、大皿に盛られた冷たいテンプラを身分の隔てなく皆で取り分けて食べるというものである。テンプラの衣が厚いとどうしても油の切れが悪くしっとりとしているが、この油の多いことがかえって僧侶の栄養摂取としては望ましい料理となっているようだ。

卓袱(しっぽく)料理を精進風にしたのが普茶料理と言えるでしょう。いぜれにしても天ぷらは外国から持ち込まれたものだったのですが、日本に入ったとたんに全く違う、和食の姿に切り替わって発展していった食べ物だったようです。

長崎の卓袱料理に含まれている天ぷらから発展したと考えられている江戸の天ぷらはその姿を一変させ、江戸近海の魚の風味を生かしたあっさりした天ぷらに生まれ変わり、現在の天麩羅の主流となって発展していったのです。長崎天ぷらとの違いは、長崎天ぷらの衣には小麦粉の中に酒、砂糖、卵などが入っており、そのまま食べても味がついているのだが、江戸天ぷらは中身の素材の持つ自然の味を生かすところに重点が置かれていたために、衣に味がないので天つゆにつけなければならないところにある。

天ぷらが徐々に大衆の人気を得るようになった頃、江戸に登場するのが「金ぷら」というものだった。しかし、この「金ぷら」がどのようなものであったのかについては諸説あって定かではない。どうやら天ぷらよりも上等の揚げ物とされていたようで、座敷で食べていた様子がうかがえるが、明治時代には消えてしまった。「金ぷら」とされていたのをいくつか紹介すると、まず天ぷらの衣に卵の黄味だけを入れて天ぷらを黄色くした、というのがある。

さらには揚げ油をゴマ油でなく椿油で揚げて天ぷらの色を薄くしたというのもある。椿油は真っ白で天ぷらがきれいに揚がり、衣の卵の黄味の色が鮮やかに出たといわれている。また、小麦粉を使わずにそば粉で衣を作って金色に似せたという説もある。「金ぷらは衣に蕎麦の一番粉に卵の黄味を使い、銀ぷらは衣に卵の白身を使った」とも言われている。

さらには金ぷらは榧(かや)油を使ったものだ、という説もある。これは当時の様子を描いた草双紙に「榧油製金麩羅」という軒看板が描かれているからである。榧の実から絞る油は上等の天ぷら油とされていたのだが、今では榧の木が絶滅状態になってしまい、榧の油は過去のものとなってしまった。余談だが、奈良公園に榧の木が残っており、許可を得てその実をもらい発芽させた方からいただいた苗木が我が家の郷里の庭にすくすくと育っている。いつの日か幻の榧の油で天ぷらが食べられるかも知れないと楽しみにしている。

天ぷらがポルトガルから伝えられたものであるとすれば、江戸での庶民化が遅すぎるのが気になる。それには後に触れるが家康の死亡説と関係しているのではないかと思っている。いずれにしても現代で庶民に人気のある食べ物の寿司、うなぎ、蕎麦に比べて一般への普及が際立って遅い。その理由については誰も答えを見つけていないようだ。なお、天ぷらの歴史について詳しく知りたければ平野正章、小林菊衛共著の「てんぷらの本」(柴田書店)を推奨する。 

茶話会の目次に戻る