独断的JAZZ批評 389.

本田 竹広
幾多のアクシデントは、むしろ、「天の配剤」だったのかもしれない
ジャズが、彼のジャズ魂を呼び起こし、奮い立たせ、完全燃焼させたのだ!
"MY PIANO MY LIFE 05"
本田 竹広(p )
2005年7月31日 東京紀尾井ホールにて収録 (TEICHIKU RECORDS TECD-25526)

本田竹広(名前を何回か改名しているので、ジャケットに従った)は昨年の1月12日に他界した。享年60歳であった。2度にわたる脳内出血に屈せず、奇跡のカムバックを果たした矢先であった。
JAZZ批評 386.で紹介した"THIS IS HONDA"は27歳の時のアルバムだ。今度のアルバムは2005年7月31日に開かれた最後のリサイタルの記録である。
@はベートーベン、Eの宮古高校校歌は本田の父君の作曲。残る4曲は本田竹広のオリジナル。

@"BEETHOVEN PIANO SONATA NO.14 [MOONLIGHT] TADAGIO" 本田は当初,、第3楽章まで弾く予定でいた。が、しかし、その後に起こったアクシデントにより、一時はリサイタルの中止を申し出たという。関係者の努力により、何とかリサイタルにこぎつけたものの第1楽章が精一杯だと言って、以下の演奏をジャズで埋めた。この演奏を聴く限り、本田竹広はジャズの人である。次の曲からは見違えるような本田の姿がある。5分43秒。
A"シリウス〜アフリカの風" 気分一新。力強い演奏が戻ってきた。だが、まだ絶好調とは言えない。17分28秒。
B"AMAZING LITTLE DREAM" "MY ONE AND ONLY LOVE"のテーマが一瞬顔を覗かせる。哀しくも美しいテーマ。次第に本田の世界が構築されていく。13分12秒。

C"EU TE AMO (I LOVE YOU)" 美しくも力漲る演奏が帰ってきた。尾崎正志氏のライナーノーツでは「この男はピアノと合体している」とあるが、まさに、鬼気迫る演奏なのだ。心打つ8分17秒。
D"GET UP !!" 指の骨折?鎖骨の骨折?そんなことあったの?という演奏。聴衆との一体感もいいね。10分8秒。
E"故郷〜父の歌 [宮古高校校歌]" 何回聴いても目頭が熱くなる。故郷〜仰げば尊し〜宮古高校校歌と続く。僕には、もう言葉がない。絶句の10分12秒。

このアルバムを聴いているうちに、僕はSTAN GETZの"PEOPLE TIME"(JAZZ批評 231.)を思い出した。癌に侵され余命いくばくもないといわれたGETZが蝋燭の炎のように最期に燦然と輝いたアルバムだ。

このアルバムは本田竹広が2度の脳内出血、週3回の人工透析から奇跡のカムバックを果たし、ベートーベンの「月光」に挑戦しようと自らを奮い立たせて挑んだアルバムである。しかし、その過程に待ち受けていた陥穽とも言うべき2度の骨折。1度目は2005年4月に右手中指を亀裂骨折。不運は重なり、5月には左鎖骨骨折というアクシデントに見舞われた。7月のリサイタルで本田が目標とした「月光」の第3楽章までの完奏には至らず、第1楽章までの演奏となった。が、しかし、このアルバムに記録された演奏は、リサイタルを目前にして中止を訴えた本田の弱音が俄かには信じられない素晴らしい演奏となった。
この演奏を聴く限り、本田に降りかかった
幾多のアクシデントは、むしろ、「天の配剤」だったのかもしれない。「月光」の第2、第3楽章の代わりに弾いたジャズが、彼のジャズ魂を呼び起こし、奮い立たせ、完全燃焼させたのだ!
その10日後、8月9日の検査入院で、心臓肥大、肺には水がたまり呼吸困難になっていたという。その検査入院は2ヶ月にも及んだという。そして、翌年の1月に急性心不全で帰らぬ人となった。
このアルバムは本田竹広という稀有のジャズ・ピアニストが残した壮絶な記録であり、集大成でもある。
「manaの厳選"PIANO & α"」に慎んで追加した。そして、黙祷。   (2007.01.18)




.