映像言語と読書
学芸欄('02.10. 7.)掲載
[発行:高知新聞社]


 近頃の子供は、本を読まなくなった。御多分に洩れず、我が家の子供たちもそうだ。子供たちだけではない。僕も随分と本を読まなくなった。では、子供たちや僕が、娯楽であれ、教養であれ、何から摂取しているかと言えば、やはり漫画、もしくはTVや映画などの映像表現からだろう。

 人の感受性を育み、それに影響を与えるのは、生きている営みの総てのことからだろうと思うから、読書がそれに非常に有効だとは思っても、それを絶対視するわけではない。だが、何年も前から常々思っていることがある。

 僕らが子供の時分、学校で読書を勧められていたときには、必ず並行して国語の授業があって、文法のみならず言葉の表現技法や文章の構成などのお約束ごとに加え、修辞法による効果やそれを使う側の狙いなどを、低学年のときから段階に応じて、教科書に沿って教わった。そして、名作や名文を読まされた。作文もさせられた。それなのに、子供たちからの活字離れが指摘され、学校教育でのメディア・リテラシーの必要性が指摘されるようになっても、一向にそれが現実に進まないのはなぜなのだろう。

 僕の偏見かもしれないけれど、教育界に読書への執着があるのだろう。読書を促すことを捨て去ってはいけないとは僕も思う。けれども、それ以上に、いま氾濫している映像に対して子供たちを無防備のまま晒していていいのだろうか。子供向け・成人向けといった素材の区別よりも、表現に対する読解力を養うことのほうが遥かに大切だ。

 ナレーションを添えることで客観性を装わせることとか、同じ構成の映像を何度も繰り返すことでその組み合わせが既定の事実であるように錯覚させることとか、カットバック(切り返し編集)による切迫感の演出だとか、モンタージュ(異なる映像の組み合わせ)による意味づけや解釈の誘導などについて、具体例に沿って学習させるべきだと思う。読書も大事だけれど、いま現実に本を読む子供たちが少ないままに、浴びるように映像にはひたっているのだから。

 そのカリキュラム作りがそんなにむずかしいものとも思えない。それこそ、国語の教科書の単元に即して、映像言語を当てはめていけば、ほとんど準用できるような気がする。学校現場には「視聴覚教育」という言葉が古くからあったけれど、そのほとんどは実験や見学に代えての教材活用という側面だったような気がする。せいぜいで良心的表現作品の鑑賞までだ。それさえも一頃に比べると随分と衰退していて、いまや視聴覚教育の担当の先生がその名の元に授業の一貫として指導をしているところはほとんどないとも聞く。

 いまこそ視聴覚教育が、その本質的な意味を備えて再生すべきときではないだろうか。近頃は、公共上映だとかいって、図書館や美術館や文化振興事業を担う公益法人やNPOなどによる上映活動が盛んになっているが、それに比べて教育の場での足取りがいかにも鈍い。公教育として国が本気で取り組まないのなら、公共上映活動を担う事業体と視聴覚教育の現場をつなぐことで、そのカリキュラムの作成はできないものだろうか。そのマネジメントは、どこがなしうるのだろう。

 同じ作品に接しても、異なる感想が出てくるのは書物も映像も同じことだ。解釈の違いというのは、様々にあっていいものだと思う。だけれど、解釈の違い以前の読み違いというのが、書物に比べて映像表現の場合は非常に多いような気がする。それは教育の場で、体系だった学習をする機会がないことと大いに関係しているように思う。

 土佐の教育改革の一貫として、開かれた学校づくりに位置づけて、県教委が取り組む可能性はないものだろうか。
by ヤマ

'02.10. 7. 高知新聞学芸欄「月曜随想」映像言語と読書



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