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『悪夢のサイクル ネオリベラリズム循環』を読んで | |||||
内橋克人 著<文藝春秋> | |||||
かねて共鳴するところの多い発言をする内橋克人が五年前に著した本を手にしてみた。 映画『ディア・ドクター』をめぐる談義で「野球選手の年収の件では、またぞろ昔の話になりますが、二十余年前のバブル時代に日本の一億円プレイヤーの誕生をマスコミが煽り促していた記憶がまたぞろ苦々しく蘇ってきます(苦笑)。TVやスポーツ紙を見てファン達が、あるいはコメンテイターたちが、落合にはそれだけの価値があるとか日本も大リーグ並みにとかって囃し立てていました。 巷間でそれを話題にしている人たちの年収がいかほどだったのか知る由もありませんでしたが、2002年のペイオフ解禁を前にマスコミが掻き立てていた“全額保護措置が解かれる不安”にすっかり同調して騒ぎ立てている人たちの大半が、どう見ても1000万以上の預金保持者には見えない不思議を感じていたときのことと併せて、どうしてこうなんだろうと思いますね(笑)。」などと発言していた僕は、読み始めて早々に「トヨタやJR東海などが出資して“エリート養成”をうたって鳴り物いりで開校した愛知県の私立中高一貫校“海陽学園”の場合、寮費もこみで年間三〇〇万円もの費用がかかります。平均年収が八〇〇万円を超えている大手マスコミの子弟ならともかく、マスに向かって書かれているとされるこれらの記事は、実は多くの家庭にとって無縁です。」(P12)と記されているのに出くわし、快哉をあげた。 実に明快に“格差社会”の創出を期したアメリカ発の“新自由主義経済”批判を展開していたのだが、批判に終始することなく、なにゆえそれが我が国でメインストリームと成り得たかをも語るとともに、今後あるべき姿をも具体例とともに提示しているところに大いに感心。 「九〇年代半ば以降の政策変更の中で、“規制緩和”“税制のフラット化”“資本行動の自由化”という三つの政策の変化が、日本社会における格差の拡大に大きな影響を及ぼしました。」(P64)としている三政策のなかで、かねてより僕が憤慨していた税制のフラット化については、民主党政権になってから政府税調でも見直しが行われているものの、一向に進んではいない。規制緩和については、先頃もピーチ航空の発足が派手に報道されたように、本著で力説されていた“安全や安定が重要とされる分野への導入”がエアドゥやスカイマークの苦境にも関わらず今なお続いている。 税制についての僕の考え方は、映画日誌『不撓不屈』や『ベルリン、僕らの革命』、或いは『キャピタリズム マネーは踊る』で示したように、累進課税及び所得制限にあるのだが、そこには、やはり十代の時分に培ったように感じているリベラリズム志向があるような気がしている。 僕がミヒャエル・エンデと政治家エアハルト・エプラー、演劇人ハンネ・テヒルの鼎談『オリーブの森で語り合う ファンタジー・文化・政治』(岩波書店)を読んだのは、'85年の7月だが、当時「現代においては、なんとも素朴、いやそれどころか滑稽にすらきこえるかもしれないのは承知で、あえてぼくは、友愛は近代“経済”に内在している掟である、と主張する。“経済”にたいして、例の“需要と供給の自由なゲーム”を通用させることはできない。そうなると“万人の万人にたいする戦い”となり、経済的に最弱の者がいつも割りを食うことになるからだ。経済自由主義から生まれてくるのは、いつもきまって経済のダーウィニズムでしかなく、結局ぼくらはつまらない勝負をさせられてきたし、今後もつまらない勝負をさせられるだろう。」(P64)、「結局のところ経済の存在理由はただひとつ、人間の欲求をみたすことなんだ。経済の欲求に奉仕するために、人間が存在しているわけじゃない。」(P72)、「ぼくらの“経済”は内部矛盾という病気にかかっているんだからね。つまり一方には、近代産業の生産方式がある。それが恵みをもたらすためには、だれとも協力しあってはたらくことが必要だ。それからもう一方には、資本主義の貨幣経済がある。そのせいで、だれもがだれにたいしてもエゴイズムむきだしで戦うようになっている。」(P73)などと発言していたエンデに非常に強く共感を覚えた記憶がある。“共生”という言葉を使ったのは、エンデではなく、ハンネ・テヒルだったように思うけれども、“共生経済”を唱える内橋克人の言に出会うたびにエンデのことを思い起こしていた僕は、「現代経済の最も重要な特徴は、ITと結合した巨大マネーの存在」(P188)としたうえで「“マネー”は“お金”とは違うのです」(P189)とし、ミヒャエル・エンデを引用していたところに大いに得心を覚えた。そして「問題なのは、そうした“虚の経済”によって実体経済が影響を受ける点」(P191)だというのも全く同感だ。 それはともかく、格差社会を創出する前記三悪政策について「なぜ、年収六〇〇万円以下という日本の大多数(二〇〇六年現在で約八割)が、こうしたみずからの首をしめるような政策変更を受け入れたか」(P64)なのだが、「主だった要因を挙げるならば、一つには、“『規制緩和』を戦後の官僚支配を打破する特効薬と錯覚したこと”。二つめには“学者をメンバーにいれた一見中立にみえる政府の審議会、あるいは首相の私的(!)諮問委員会の口あたりのいいキャッチフレーズにまどわされたこと”。三つめには“これら審議会の意見を大きくアナウンスした大マスコミの存在”。そして四つめには“小選挙区制度の導入”があげられるでしょう。」(P64)となっていた。 「都市で年収一〇〇〇万円以上の収入のある特権階級ともいうべき学者やマスコミ人たちがおさえこんできたことのほうが問題」(P185)というのは、地方都市に住む僕には大いに共感できることなのだが、小選挙区制のなかでその戦略に乗せられ、今またツィッター世論などという凡そ“世論”の名に値しない言説に左右される選挙によって、まさにポピュリズムが横行するリベラリズムの貧弱ぶりを目の当たりにするにつけ、地方在住者が責を負わずに済むことでは全くない。 それにしても、「鍵は八〇年代後半から始まったアメリカからの内需拡大の要請とバブルの発生にあります。」(P133)と看破された「アメリカの対日要求をつぶさにみていくと、“資本の自由化”“政府規制をなくすこと”“系列を排除すること”など、ネオリベラリズムにとっての市場を日本にも広げることが目的だった」(P152)というものに、グローバリズムの号令の下、何故やすやすと乗っていったのかを思うと、本当に腹立たしくなる。あまつさえ要求項目にはなかった富裕者優遇税制は、この際型に便乗して取り入れているわけで、それは、為政者たちが如何に国民の八割のほうを見ようとはせずにアメリカの利権と自らのエスタブリッシュメントとしての保身に貪欲にほかならないかということだ。 チリ、アルゼンチン、あるいはタイなどの例を引きつつ、強欲ファンドの横暴が国家経済を食物にしていくさまを明らかにすると同時に、フィンランドの社会運営における共生モデルの提示や怪物たる“資本の自由化”に対抗する「トービン税」の紹介や二〇〇五年一月のダボス会議で構想が発表され、同年九月にフランスをはじめとする6ヵ国によって導入が正式に発表された「国際連帯税」を紹介(P197)しているけれども、六年も前に始まったそれが今どうなっているのか、僕など始まったことすら知らないままに過ぎてきている。メディアの責任は本当に重いと思う。 | |||||
by ヤマ '11.12.30. 文藝春秋 | |||||
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