| |||||
『碁盤斬り』 | |||||
監督 白石和彌 | |||||
なまじ真贋を見極める眼力の持ち主という設定にしてしまったために、何だか釈然としなくなる人物造形が仇になった感があって、違和感の残る展開と結末になってしまったように思う。 眼力の備わっている者であっても嵌る陥穽を描くことを主題にしているふうでもなく、大店の跡継ぎ弥吉(中川大志)のみならず、格之進(草彅剛)にしても源兵衛(國村準)にしても、迂闊と粗忽が過ぎる話になっていて、どうにもいただけなかった。場面を見せる力があるだけに、何とも勿体ない出来栄えになっていた気がする。ちょうど先ごろ再見したばかりの『異人たちとの夏』に通じるような印象だった。 主君が信頼を寄せている格之進を妬んだ柴田兵庫(斎藤工)に謀られた濡れ衣でお役御免となり、汚名を着せられても、浪人となってしぶとく生きていた格之進なのに、なぜ五十両の盗みの濡れ衣を着せられて大店の奉公人に咎められたことで自害を企てようとするのか、また、誇り高き武士のはずなのに、娘のお絹(清原果耶)が自ら身を売って得た五十両に何ゆえ易々と乗るのか、卑劣漢のはずの柴田兵庫が何ゆえ探幽の軸を売り払っていないのか、格之進が左門(奥野瑛太)に対して踏み絵の如く主命破りを求めるのは何ゆえか、格之進は手中に収めた探幽を提げて出奔して何をしようとしていたのか、お絹にしても格之進にしても、何ゆえ弥吉との婚儀に易々と臨めるのか、たとえ物事や人の二面性やら矛盾を描こうとしていたにしても、余りに釈然としない思わせぶりな作劇に少々閉口してしまった。 すると、奇しくも観賞した当夜に会食した先輩映友から、本作の元ネタは古典落語なのだと教わった。結末についても演目に取り上げた噺家によって様々な落ちが付けられているらしい。されば、チラシに記されていた原作小説『碁盤斬り 柳田格之進異聞』(加藤正人 著)というのもまた、諸々ある格之進のヴァリエーションの一つということになるわけだ。その小説の映画化に当たって脚本家がどのような潤色を加えたかについては、小説家自身が脚本を書いているから問題が生じることはないのだろうが、小説と映画という表現媒体の違いによって同じタイトルでも別物作品になることは頻繁にあって、つかこうへいの『蒲田行進曲』など小説も映画の脚本も同じ人物が書きながら、結末も印象も異なる作品になっている。原作者が脚本参加していない『世界の中心で、愛をさけぶ』など、片山恭一による原作小説に対するアンサームービーだという気がしたくらいだ。 僕自身は、むしろ翻案や潤色があってこその表現世界だとかねがね思っていて、巷で仄聞する原作と異なる映画化への異議などには違和感を覚えていたのだが、こういったことで人の命が失われる事態が起こってしまい、吃驚している。二次利用についての合意形成と遵守はむろん必要なことなのだが、もともと純然たるオリジナリティなど存在するはずのない表現世界において、過大にオリジナル幻想に憑りつかれて、表現が非難され排除されたり、痩せ細ったりするのは残念至極だと思わずにいられない。これに編集や監修といったものが加わってくると尚更に複雑で厄介なものになってくるわけで、杓子定規ではいかないとしたものだが、デジタル感覚で育ってきた世代には、そういったアナログ感覚が解せなくなっているのかもしれない。僕などは、それこそが文化的衰退のように感じてしまう世代だ。 それはともかく、本作がそのような出自の元にあるドラマであるのなら、僕が違和感を覚えることになった一番の眼目は、やはり加藤正人による異聞において、囲碁好きの格之進と源兵衛を“真贋を見極める眼力の持ち主”という設定にしながら、名人の見損じとして描かなかったことにあると改めて思った。この設定にするのなら、やはり格之進を疑うのは弥吉ではなく源兵衛でなければならないし、弥吉は想いを寄せる絹の父親を庇いながら親代わりの主人を正しきれずに格之進の恨みを買い、格之進は絹の用立てたカネの出所を見損じて大店への面当てに五十両を渡し弥吉と絹の間柄を裂いたけれども、最後に互いの見損じが明らかになって和解のうえ祝言に至るという展開になるべきものだろうという気がする。 | |||||
by ヤマ '24. 6. 3. TOHOシネマズ1 | |||||
ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―
|