『異人たちとの夏』['88]
『青春デンデケデケデケ』['92]
監督 大林宣彦

 公開時の劇場観賞はしていないものの、おそらくはTV視聴で数十年前に観ている『異人たちとの夏』が課題作に上がったので、再見した。当時、けっこう世評が高かったなか強い違和感の残った作品だった覚えがあって、それがどのように映って来るのか楽しみだったのだが、やはり違和感というか、ちぐはぐな感じが強くて、アパートの二階に上がる屋外階段で花火をしながら夫(片岡鶴太郎)の帰りを待っている妻を演じていた秋吉久美子やら、鶴の恩返しか雪女かの観たら取り返しがつかなくなると戒めて男(風間杜夫)に決して見ない、約束すると言わせる藤野桂を演じた名取裕子は好かったけれども、筋立てと運びがさっぱりだった。

 ちょうど、プッチーニによる♪O Mio Babbino Caro♪が如何に美しくとも、「私のお父さん」に訴えて許しを請うような恋情など何処にも描かれていないにも関わらず、繰り返し強調されることによって生じる違和感に似たようなことが随所にあった気がする。図らずも死霊を呼び寄せる程の生気の減退を男に招いた原因が離婚にあるとしても、その挫折感がきちんと描かれていたようにはとても思えないし、そうして引き寄せた異人との交わりによって男がやつれて行くとしたら、どう考えても十二歳のときに死に別れた両親よりは、『邪し魔』(友成純一著)の結城良治が耽っていたような異界の女身との情事によるものに違いないという気がする。それなのに、己がやつれに気づいていない原田(風間杜夫)に敢えて桂がそれを告げるばかりか、男を失いたくなくて謀ったかのように両親との邂逅を引き裂こうとした執心と独占欲を詫びることもないままに、男からの愛の言葉に対して甘いことを!との捨て台詞で以て血を浴びせ掛け、そのくせ貴男ならまだ取り戻せるわと去って行くのであれば、彼女が口ずさんでいた♪O Mio Babbino Caro♪は、何だったのかという気がしてならなくなる。

 のっけから始まり、中盤で桂が口ずさみ、最後の間宮(永島敏行)による救出場面でもレコードで掛けるというような念入りな使い方をせずにBGM的に使っていれば、いちいち歌の内容にまで拘ったりしないのだが、本作での使い方は、まるで男が異人たちに見舞われたのも彼がプッチーニに入れ込んだせいだと言わんばかりだった。脚本家の原田と、彼の別れた妻を挟んだプロデューサーの間宮の関係にしても、妙に捏ね回したようなチグハグ感の拭えない造形だったような気がする。

 桂が男に告げていた警句は、結果的には彼女にとっての取り返しのつかなさであって、男にとっては生気を取り戻しての生還なのだから、むしろ必要なことだったし、観たいとは言っても観ずに約束を守っていた男に胸を開いて見せたのは桂のほうだった。観ないと約束していても男はみんな必ず観てしまうというようなことも桂は警句に添えて言っていたと思うが、二人が出会ったシャンパンの夜に自ら付けた、ほんの一か月前の傷ならば、桂が男に警句を与えるまでの間に彼女は何人の男と交わったと言うのだろう。脚本家のほかには部屋に訪ねて行ける住人は一人もいないマンションで、彼女はいかにしてその警句を口にするだけの実績を積み得たのだろうと思ったりもした。

 脈絡よりも場面主義の作り手ゆえに、いかにもという気がするけれども、最後にどうかしてるでもってエクスキューズする居直りに対しては、あまり入れ込まないでくださいねなどと釘を刺されても、笑って済ませる気にはなれないところがあった。むしろこういう小賢しいフックを掛けて来なければ、目くじらを立てたりもしなかったかもしれないのだが、なんだかなぁの蛇足場面が気に障った。ここのところは、原作小説にはない部分だろうという気がして仕方がない。

 しかも魂消たのは、手元にある当時のチラシに記された【ものがたり】に、ケイが自殺をしたのは、シャンパンを持って原田の部屋を訪ねたのに「それを拒絶されて、ケイはその夜自殺した」と書いてあったことだ。僕は、シャンパンを持って訪れた時点から既に異人だと思っていたので、旧知の映友女性二人にケイの自殺はシャンパン前かシャンパン後かのいずれだと思うかと問うと、二人ともがすんなり原田から拒まれた後だと解していたことにも魂消た。

 桂の胸に残った凄惨なまでの傷を“原田のせいで付けた傷”にしてしまうと、それが切欠に過ぎないとしても桂の自殺において、原田の関与する部分が強くなりすぎて、存在としての孤独や居場所のなさによる自死とは、まるでニュアンスが異なってくる気がして、ますますチグハグな感じがしてくる。これは合評会でもメンバーの意見を聴いてみたいと思った。

 そういったことのあおりもあってか、先ごろ映友たちから薦められた『異人たち』アンドリュー・ヘイ監督)だが、本作同様に山田太一の原作小説を映画化して、更にはいかにも最近のトレンドであるゲイに置き換えているなどと仄聞したものだから、さっぱり観る気にならなかった。ケイの部分がゲイになっているということなのだろう。まるで駄洒落じゃないかと食指がぴたりと動かなくなってしまった。


 三日後に観た大林監督の四年後の作品『青春デンデケデケデケ』は、'65年から始まる“高校生たちがバンド活動に明け暮れる青春物語”だった。そう言えば、念願かなって昨年観る機会を得た青葉繁れるは'50年代、その翌月に観た博多っ子純情は'70年代だったことを想起した。

 そろそろ古稀が近づいてきた歳になって観るせいもあるかもしれないが、いずれの作品においても相通じている男気を主軸にした、まだまだ大らかな時代の男の子の成長譚が描かれていて、微笑ましくも懐かしい映画だった。最も好むのは『青葉繁れる』だけれども、本作もなかなか好い。

 些か冗長に感じる部分もあったので、120分内に編集するほうが望ましいと思うが、二十年後の三十路半ばの中年になって振り返る十代のノスタルジックな味わいに感慨深いものがあり、エンドロールに何十曲もクレジットされていた楽曲の殆どを懐かしく聴く世代として、格別のものがあったように思う。

 十代の浅野忠信の姿に時の経過を感じ、スクーターに乗って法事の務めもこなす寺の跡継ぎ、合田富士男を演じた大森嘉之が目を惹いた。'50年生まれのちっくん(林泰文)たちは、僕より八歳も上になるのだが、東京オリンピックの翌年の地方都市の観音寺だと高度成長時代と言っても時の流れの速さは今ほど忙しくはなく、時代の空気としては、同時代感覚が湧いてくる。同じ四国に住んでいるから尚のことだった。バンド練習に明け暮れている高校生たちに流れている時間の緩やかさが、後には小学生でも時間刻みで習い事に勤しむようになる時代を知っているから、殊更に掛け替えのないものに思えてくる。忙しく追われることなく熱を入れられる時間を過ごすことのなかには侮れない醸成があるような気がする。

 すると、高校時分の映画部の部長が我々の青春映画のバイブルかもね。浮かれてクラブに熱中したあの頃がある人には忘れられない映画ですね。とSNSに寄せてくれたもので、彼らはバンド、僕らはクラブ活動やったけど、なかなかやったもんじゃったもねぇ(笑)。新聞部も生徒会も、ちびっと文芸部も…。映画部は幽霊やったけんど、大人になっても続いちゅうがは、その映画やったりする(たは)。と返したら、新聞部と文芸部はカタチとしては継続は難しいよね。新聞社の文芸部に入る以外は!(笑)ま、映画観ても、書きゆうし、ネットで広めゆうから全部やりゆうみたいなもんやろ?と言われた。成程そう来たかと思いつつ、生徒会の執行部というのも観方によれば、現役時分に従事していた仕事はそういうものだったと言えるのかもしれないと思った。


 合評会で桂の自殺がシャンパンを提げて原田の元を訪ねる前か後かを三人のメンバーに訊ねると、訪問時点で既に幽霊、最初の訪問時点ではまだ異人ではなかった、桂がいつ自殺したのか考えもしなかったと三者三様に分かれたが、意見交換をしたのちは三人ともが訪問時点で既に幽霊だったと解するのが相当という意見になった。亡き両親にしても桂にしても、原田の生命力の減退が招き寄せた異人だと解するほうが自然だというわけだ。だが、そうなると桂は何ゆえ原田の作品や愛聴曲にストーカー並みに詳しいという設定にしたのかが不可解になってくる。僕がチグハグを感じる部分の一つだ。メンバーの一人から出た、『牡丹灯籠』を想起させる本作における桂の登場場面での現れ方は、幽霊以外の何ものでもないとの意見にも大いに納得感があった。

 また、原田自身は気づいていないやつれを桂が鏡に映してわざわざ知らせようとしたのは何ゆえかと問い掛けたところ、原田が生気を吸い取られていたのは異人の桂との情事に耽ったからではなく、桂の言う通り原田が亡き両親の霊(過去)に拘泥したからで、桂は懸命に原田をそこから救い出そうとしていたからだと素直に受け取っていたという意見があって意表を突かれた。二十八年前に事故死した両親の思い出に溺れることでどんどん死に向かい、生気を失っていく原田に対して、むしろ生気を取り戻させる行為としての性交三昧というわけで、恐れ入った。確かにセックスには、そういう機能とイメージがあるけれども、それはあくまで生者による行為であって、異人と交わるとそれとは逆の作用があるものだと解するのが常識的前提だと思っていたから、吃驚したのだった。そして、なんとか両親のほうの霊を追い払うことができたことによって、ある意味、断腸の思いで自身の原田に寄せる想いを断ち切って、自ら無惨な胸の傷を見せ血の雨を涙の如く降らせながら、恋しい原田の元を立ち去る桂という観方をしたのかと、思わぬ面白さを得ることができた。

 そう解すると、去り際に桂が言っていた貴男ならまだ取り戻せるわというのは、やつれていた彼の生気に留まらず、より具体的に彼が“失ったと思っている家族”のことを指すようになってくる気がする。二十八年前に喪った家族ではなく、今なお生存している家族のほうに向かうことを桂が示して去っていったというわけだ。最後に原田の病床に息子(林泰文)が姿を現していたのは、そういうことだったのかと大いに感心した。だが、そうなると、異人の両親のほうが悪霊的なものになって、まるで桂がエクソシストのような役割を担う話になってしまい、これまた妙にチグハグな感じが否めないようにも思った。

 普段のメンバーに加えて、大阪から参加した同世代女性を加えた五名による作品支持では、両作とも支持するというなかでの『異人たちとの夏』という者が一名、『青春デンデケデケデケ』が二名。歴然とした差異による支持がそれぞれ一名となり、二対三で『青春デンデケデケデケ』に軍配が挙がった。




*『青春デンデケデケデケ』
推薦テクスト:「ケイケイの映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20240602
by ヤマ

'24. 5.27. DVD観賞
'24. 5.30. DVD観賞



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