『花腐し』['23]
『火口のふたり』['19]
監督 荒井晴彦

 最後に栩谷(綾野剛)がシナリオの手直しをしていたことからすれば、もしかすると伊関(柄本佑)は実在していないのかもしれないが、栩谷と伊関が回想する“色付きの女”とも言うべき桐岡祥子(さとうほなみ)の人物造形というか仕草や口調になかなか味があって、伊関が栩谷に洩らすいい女だったなとの言葉が何とも沁みてきたのは、とても今世紀の話には似つかわしくない楽曲が、同時代を生きてきている僕に響いてきたからなのかもしれない。2000年に伊関と暮し始めたときに二十歳だった彼女が、栩谷と同棲し始めて六年経った三十二歳になって、栩谷が親友だというピンク映画監督の桑山(吉岡睦雄)と謎の心中を遂げる物語だった。

 去っていった祥子の♪さよならの向う側♪にあるものを辿る濡れ落ち葉の栩谷の物語でもあったわけだが、チラシの裏面に記されていた“ピンク映画へのレクイエム”というモチーフに相応しい楽曲となれば、やはり昭和のものになるのだろうし、祥子の死にはピンク映画のいま置かれている状況が投影されているのかとも思う。

 成人映画専門館だった浅草シネマ、浅草世界館が閉館した2012年に祥子が亡くなる設えにしていたのはそういうことなのだろうし、その♪さよならの向う側♪つながりでか、♪知らず知らずのうちに♪や♪恋のかけら♪が流れ、松山千春の♪♪や堺正章が歌っていた♪街の灯り♪が物語を演出していく。タイガースの歌った♪色つきの女でいてくれよ♪は流石に流さなかったが、祥子が登場する場面だけカラーに色合いの変わる画面を裏付けるように大瀧詠一の♪君は天然色♪が前もって流れた。

 かつて業界の片隅に身を置いた者として、男がセックスに幻想を抱かない時代になったと洩らしていたのは伊関のほうだったように思うが、あたかもドッペルゲンガーのような二人が語り合う祥子の女性像は、いまどきの若者が観てもまるでピンと来ないどころか、女性からは顰蹙を買いそうな気さえすることによって、映画を観ている我が身の時代錯誤を痛感させられる気もした。

 松浦寿輝による原作小説は未読だが、栩谷と伊関が語り合っていた女の回想譚のなかで陰唇の黒子に言及したことによって女の名前を確認するくだりは、原作小説にはない荒井晴彦の意匠だろうという気がした。『ラストタンゴ・イン・パリ』はバター、『ベッド・イン』はマーガリンという台詞は、間違いなく原作にはないに違いない。

 前作『火口のふたり』は、R-15版しか観ていないが、本作はスクリーン観賞ができたおかげで感興が得られたように思う。観逃している『この国の空』と併せ、きちんと観直してみたい気になった。また、最後は当地でまだ上映中のカラオケ行こ!を思わせる場面が現われ、可笑しかった。


 三年前に観た前作は、二十年余り前に観た秀作身も心もに出ていた柄本明の息子が出演していて、幾人かの映友から観るよう促されながらも、当地では公開されず、観ることの叶わなかった宿題映画だったのだが、初見はスクリーンでと思いながら、昨今の情勢では到底かないそうもないと録画ディスクで観ることにしたものだった。尺はほぼ同じようだから、カットしているのではなくて、編集自体が異なっているようだ。とはいえ、本来、R-18作品だったものについて、特にこういう作品なら尚更に、R-15版を観ても、なんだか展覧会を観覧せずに図録を観ただけのように、実物を観たような気にはなれなくて何とも残念だった。

 防衛大卒の自衛隊三佐四十歳初婚という婚約者との結婚式を目前に、五歳上の元彼バツイチの賢ちゃん(柄本佑)との五日間限定のセックスに耽る直子(瀧内公美)という男女二人の生態を観ながら、愛のコリーダの定と吉蔵がひたすらセックスに耽って宿での逗留は、何日間だったろうと思ったりした。

 オープニングから、伊東ゆかりの歌う早く抱いてが流れてきて、荒井晴彦が脚本を書いた皆月を思い出したが、山崎ハコが同曲を歌っていた『皆月』や『身も心も』のほうがずっと味わい深い映画だったように思った。

 柄本佑も瀧内公美も、なかなかよく賢ちゃんと直子の人物造形を果たしていたように思うので、本来のR-18版で観ると、ふたりの洩らすからだの言い分というのが、『愛のコリーダ』には及ばずとも、それなりに伝わってきたような気がしてならなかった。




『火口のふたり』【追記】'24. 6.15.
 妻がネットフリックスを観たいということで台所のテレビにストリーミング端末を取り付けたところ、IPアドレスが同じだからか、自室のパソコンでも観られるようになったので、リビングの有機テレビで視聴した。R15版しか観ていないことに対して、R18版を観るよう奨められてもいたから、とりあえず大河ドラマの夫婦役で絶妙の再共演しているうちに観ようと思ったのだ。55型で観たからか、R18版だったからかは判らないが、前回観たときより随分と味わい深く観ることが出来たように思う。
 直子を演じた瀧内公美が時折見せる、いかにも相好を崩した笑顔に大いに惹かれた。人生って難しいものよねと呟いていた直子が八年前と思しき二十歳のときに永原賢治から破瓜と思しきときをこわい?と訊かれてうれしいと応えたのと違い、いわゆるマリッジブルーによると思しき誘いに乗って今度は彼女からこわい?と訊かれ、ただこわくはないと応えていた対照が印象深い。本当は怖かったのだろう。
 かつてと違って二人の関係を終始リードしていたのは、大人になった直子のほうで、出来婚の後の離婚による心療内科通いの経験を経ても、二十五歳のときから基本的に大して変わりなく、器を拡げるには至っていない賢治との対照も印象深かった。
 五歳違いの従兄妹同士の自分たちに結婚は許されないものだと思い込んでいた賢治が、自分の知らなかった亡き母親の言葉を聞いて囚われから解放され、賢治と別れた後の幾多の経験を糧にして、きちんと“からだの言い分”に向き合えるようになっているばかりか、余人にはない居心地という関係性の相性の値打ちについても深く知るようになっている直子が、隣県に大被害をもたらした震災を経て“生きていることの有難み”を自覚するようになって、積極的に生きることを模索したなかで再生された二人の関係を、味わい深く、微笑ましく観た。随所に織り込まれたユーモアと生々しさが、とても好い。
 直子が賢治とのセックスで他の誰とも味わえない格別の快感が得られていたのは、賢治が仕掛けてきた路地裏や百貨店でのセックスや長距離バスの車中での痴戯が、賢治の言うような“人の視線を意識することでの刺激的な興奮”をもたらすからということよりも、他の誰とも出来ないことが賢治とだったらやれてしまう自分と、自分をそういう気持ちにさせてくれる賢治に掛け替えのなさを感じ、燃えるからなのだろう。だから、特別な行為そのものよりも特別な関係だからこそ、という部分を賢治が履き違えなければいいのだけれども、得てして男は誤りがちだ。
 兄妹のようにして育った二人の間で子供を作ることを怖がるどころか、期する気持ちになったと思われる二人の関係性がどのように変じているのか、二人の十年後の姿を観たい気がした。
by ヤマ

'24. 3.31. あたご劇場
'21. 5.25. 日本映画専門チャンネル「月イチ衝撃作」録画



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>