『身も心も』
監督 荒井晴彦


 成人指定の映画だからというのではなくて、本当の意味での大人の映画だと思った。狭い世界でのチマチマ、イジイジした人間関係を引き摺っただけの男と女の物語にも見えるが、その引き摺り方には、若者達にはきっと分からないであろう屈折や年月の重みあるいは澱といったものをリアルに感じさせるところがあって、そのあたりが大人の味の映画なのである。

 全共闘世代が挫折とともに陥ったある種の閉塞感のなかで、腐れ縁的もたれ合いをいつまでも引き摺るしかなかった場合のその後の人生における男と女の姿としては、中年後期の淋しさや寄る辺なさといったものも含めて、かなりの心情的リアリティと共感を覚えた。遅れてきた世代としてある種の羨望と同情をもって僕が眺めることの多い、地縁でも生活でもない観念の共同体という特別な連帯を共同幻想として共有したであろう彼らのこだわり方と傷跡が、同世代としてその時代を生きた人々からもこういう描き方なら許せるといった納得とその裏返しのような反発を呼びそうな気がする。それは希有なことだ。

 過去は過去としてこだわりは留保しつつも、いつまでも引き摺りたくはないとの思いの一方で、傷つけ傷つけられ、その傷を舐め合い、かさぶたを剥ぎ合うことで観念共同体の共同幻想の証としての古傷を改めて共有し、確認し合わないではいられない思いのアンビバレントな危うい関係のバランスのうえに男女の関係が乗っかり、四人がもたれ合っている。四人のなかでは、その病膏盲から比較的離れ、自立に近いところにいるのが永島瑛子の役で、だからこそ却ってあの当時の独特の言葉の使い回しの仕方を再現できたりするのだろう。それがデモ行進にもろくに参加したことがなかった彼女であるところなど実に説得力のある設定だ。そして、そのようにして当時の精神の純粋な部分を未だに彼女が残していることが、他の三人にとっては嫉ましい眩しさであると同時に、ある種のイラ立ちを誘う部分にもなっているようで、そのありようまでもが当時の彼女のままの姿として偲ばれる。一方で彼女には、何をとっても叶わないと思いつつ憧れに似たものも抱いたりしたらしいかたせ梨乃の役であるお嬢さんに対して、これだけは貴女が私に叶わないことよと自負しているようにも見える受け身に甘んじ耐える力を密かに誇示しつつも、傷つけられた傷は癒すことが不可能ではないが、親友を傷つけてしまったことで自らに負わせた傷は風化させる以外に癒しようがないということ、そして、それを風化させることが許されないでいる姿を見せつけられることで、青春の傷跡とその名残りにおいてもデモと同様に自分は中心にはいないことに対する負い目があるように感じる。

 彼女だけでなく他の三人についても、同じように風化や負い目、傷、こだわりといったことに対して、なかなか複雑で微妙な人物造形に成功していて見応えがある。そして、何よりもその複雑さや微妙さを肌合いや皮膚感覚的なものとして捉え、表現し得ているところに感心した。そういう意味では、まさしく肌合いというべきセックスシーンの描き方がやけに生々しくならざるを得ないこともよく分かる。永島瑛子と職場の後輩、永島瑛子と柄本明、かたせ梨乃と柄本明、それぞれの組み合わせにおける肌合いの違いを殊更に丹念に描き出すとともに、肌合いの相性とか肌が馴染むといった感じをかたせ梨乃と柄本明の組み合わせにおいて際立たせることに成功していたように思う。

 セックスシーンは数多の映画で観てきたはずなのだが、体位を入れ替える動きに僅かに不自然さを覚えただけで、後は圧倒されていたなんて感覚は久しぶりだったし、ある意味でそれは映画に撮る以上、最低限の不可避な不自然さとも言えるわけで、その部分しか違和感がなかったというのは驚くべきことだ。もし、翌日とか翌々日に柄本明が下駄履きで道を歩きながら、激しいセックスの後遺症の筋肉痛で微かに変な歩き方をして大きく吐息をついている場面があったりしたら完璧だったのに…などと思ったりした。
by ヤマ

'98.10. 8. 県民文化ホール・グリーン



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