『皆月』['99]
監督 望月六郎


 十五年前の高知シネマフェスティバル'98での『鬼火』身も心もの上映に際して、本作の脚本を書いた荒井晴彦氏とともに来高した望月監督からちらっと話を聞いて以来、ずっと気になっていた作品を、今頃になって衛星放送録画でようやく観た。

 平成作品にあって、昭和の香りが映画全編に漂っていたように思う。エンドロールとともに流れる下田逸郎作詞作曲の早く抱いてを唄う山崎ハコの歌声の醸し出していた昭和の香りにとどめを刺されたように感じた。登場人物の皆人に少々風変わりな性格付けがされていて、やたらと排泄場面が多いのは、人間はあくまで動物であるとの前提に立って人間探求をしようとする、いかにも花村満月の原作らしい気がした。新宿二丁目の公衆トイレでの諏訪(奥田瑛二)の小便に始まり、旅先の野外での諏訪の立小便から由美(吉本多香美)の放尿を覗き込んで野外セックスに至る場面はともかく、果てにはアキラ(北村一輝)の野糞場面まで出てくるのには恐れ入ったのだが、この野糞があったからこそ排泄場面が頻出する意味について思いが及んだような気がする。役者の誰しもが説得力のある存在感を醸し出していて、大いに感心した。

 とりわけソープ嬢の由美を演じた吉本多香美の蓮っ葉なエロかわいさが目を惹いた。当時、25歳だったらしい彼女は、映画としては先に観た五年後のまたの日の知華['04]でも印象深かったのだが、本作での魅力はそれを上回っていたように思う。すっかり見かけなくなったが、引退してしまっているのだろうか。妻が失踪した後リストラされたと思しき勤め先の大手建設会社が倒産の憂き目にあって、貰えるはずの退職金までも不意になったらしい、いかにも冴えない中年男である諏訪と、思惑違いの行きずりで惚れ合うようになっていく過程になかなか味があったように思う。

 妻の失踪が駆け落ちだったことを義弟から知らされた諏訪が「できうることなら、心の底からあきらめたい、納得したい」と、ちんぴらヤクザの義弟アキラとともに、妻を連れて逃げたヤクザを追って旅に出る。その旅に由美が同行するなかで、アキラから「どこに惚れたんだ?」と訊かれて「決まってるじゃない、セックスよ」と答え、「そんなにいいのか?」「うん」と返したときに、それが必ずしも言葉通りではないように感じられるニュアンスに痺れた。セックスがよくなるのは、それをよくするものがあってこそのものなのだということが問わず語りに伝わってくる感じがあったように思う。

 もともとアキラの勧めで訪れた初心な客の諏訪に由美が“オッサン”と呼んで懐いて同棲を持ち掛けたのは、自身の700万の借金返済に諏訪の退職金を巻き上げようとの算段からだったわけだが、それを見抜いたアキラから、諏訪が由美のマンションへ引っ越した日に訪問を受け、「入浴料と指名料でもこれだけあれば十分な身体だよな、脱げよ」と五万円を投げつけられ、その魂胆を諏訪に暴かれながら、キッチンで全裸の背中から尻にサラダオイルを垂らされつつ、後背立位で挿入される姿を晒しものにされる。それでも、アキラが去った後、自分に愛想をつかすことなく、いたわり、風呂場でオイルを洗い流しながら、無言で慰めてくれる“オッサン”に救われ、惚れたということがしみじみ伝わってきた。「ごめんね……オッサン」「そんなモテるなんて思ってないよ。女房にも逃げられたオッサンだよ」という何の構えも飾り立ても残されていない二人の対話が沁みてきた。同棲の誘いが退職金狙いであったことのみならず、ソープ嬢稼業のことも含め、このとき由美は、自分にまつわる総てのことを“赦され受容される至福”を諏訪から得られたように感じたのだろう。妻の失踪が駆け落ちであったことを知る前に客で来たとき、妻への心残りから射精には至れないままに帰った諏訪は、アキラから事の顛末を知らされて、遣り場のない想いからソープを再訪し、おそらくは憤怒と悔悟の入り混じった昂ぶる感情のなかで今度はきちんと果てることができたわけだが、そんな諏訪の男心に絆された部分も多少は作用していたのかもしれない。

 ともあれ、諏訪の退職金も手に入らないなかで由美がソープ嬢を辞めることにした二人の生活が、マンション暮らしを続けられるはずもなく、バブル期に建てられた売買物件で賃貸用にはないしっかりした造りなんだと由美が自慢していたマンションを引き払い、地味な稼ぎのアパート暮らしになっていた。でも、飾り立てるものが総て剥ぎ取られていて、他に何もないからこそ深まる絆というものがあって、そんなアパート暮らしの日々のなかで、ふと口臭を気にした諏訪に「そりゃ少しはあるわよ、ほら、口を開けてハァーってして」と言って鼻を寄せていった由美に、おずおずと諏訪が息を吐き出すのを確かめ、彼女がそのままキスとも言い難いような優しい被りつきを彼の開いた口に施す姿に心打たれた。ひとつになることを求める性愛の極地に到達している男女というものが巧みに描かれているように感じて、ゾクリとしたのだ。原作にもあった場面なのか、とても気になっているのだが、“セックスをよくするもの”というのは、つまりはそういうことなのだと思う。テクニックや相性といったことも、桁外れのものは別にして、通常はその後からついてくることでしかないような気がする。セックスは、やはり性器で行う以上に、脳で行うものだという気がしてならない。

 また、ヤクザもののアキラを演じていた北村一輝がなかなかのもので、非常に複雑な性格の人物を巧みに演じていて、大いに感心した。アキラは、妙に律義で義理堅く、気遣いに厚い一方で容赦ない残忍さを発揮し、ものごとを深く考えているのか刹那的に生きているのか捉え難いところのある人物だった。諏訪に対する親身さに掛値があるように感じられないのが魅力だったように思う。

 そんなアキラが旅先で由美から諏訪とのセックスのよさを聞かされていた前述場面の遥か手前の序盤に、彼のところに転がり込んできた義兄の諏訪に対して、姉とのセックスはどうだったかを訊ね、「この上なくよかった」と聞かされる場面があったのが、後に浮かび上がる主題としての“セックスをよくするものは何か”を提示するうえで、なかなか効いていたような気がする。みんな自ら光ることのできない“月”であって太陽ではない一方で、誰かにとっては紛うことなき“太陽”になり得るのが人というものなのだろう。しかし、確かに太陽であったものが、太陽たり続けることができないのも真実で、また、あまりにも強い光の太陽には、人は灼かれてしまいかねない。姉の沙夜子(荻野目慶子)とアキラの関係は、そういうものだったということなのだろう。




推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より
http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex/micinemaindex.html#anchor000398

by ヤマ

'13. 8.18. ちゃんねるNeco録画



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