美術館秋の定期上映会“小田香とタル・ベーラ”
 『サタンタンゴ』(Sátántangó)['94]
 『鉱 ARAGANE』['15] 
監督 タル・ベーラ
監督 小田香

 先に観たのはメインの『サタンタンゴ』4Kデジタル・レストア版。二十二年前にヴェルクマイスター・ハーモニーを観て痺れ、いつかは観る機会をと願いつつ得られていなかった作品だ。倫敦から来た男['07]は十三年前、ニーチェの馬['11]は十一年前に観ているが、ファストムービーなるものが流行る時代にあって、常軌を逸した438分150カットの名のみぞ知る超長尺長回し作品を、寄る年波からの集中力の衰えのなかで観ることに少々怯み、観ようか止めようか迷ったのだが、これも巡り合わせと観ることにした。

 オープニングの交尾を挑む個体も混じる牛の群れの動きは、偶然にしては余りにもカメラへの収まりが良く、これをワンカットでどのように演出したのかと呆気にとられた。その群れ方と逸脱の度合いが思い返すだに、その後に描かれた村人たちの有様と二重写しになるわけで、全く以て恐れ入ってしまう。

 最初の章題であるヤツらがやってくるという知らせが現われてすぐの確か三番目のカットが、間男との情事の後に洗面器に跨って股間を洗うシュミット夫人の姿で、バスと馬車が併用され、自家用車の姿は1台も見ない本作の時代設定というのは、いつ頃なのかと訝しんだ。二時間十七分の第一部の章題は我々は復活する何かを知ることを加えた三つだったが、酔いどれ観察者ドクトル(ペーター・ベルリング)の部だったように思う。幾度も倒れては蘇生していた彼が知ったのは、“垣間見た死”だったのかもしれない。

 蜘蛛の仕事1ほころびる蜘蛛の仕事2 悪魔のオッパイ悪魔のタンゴの三章による二時間四分の第二部は、第一部のドクトルに相当するのが、猫を撫でつつ涙する姿が印象深かった少女エシュティケ(ボーク・エリカ)だろう。酒場にあったポスターカレンダーのデザインからすると1960年代以降だという気がした。第一部で現れたドクトルとエシュティケが交錯する場面が再び現れ、第一部で少女が覗き見ていた酒場での踊りこそがサタンタンゴだったことが示された。“悪魔の使い”たる蜘蛛が張り巡らせた糸に愚かな人々が絡め捕られる話だったというわけだ。この第二部は、画面を観ていると、草などうっすらと緑掛かっていてモノクロではなくてカラーの脱色画面ではないかと思ったが、リーフレットにはモノクロとの記載だった。

 三時間に及ぶ第三部イリミアーシュの演説正面からの眺望天国に行く?悪夢にうなされる?裏からの眺望悩みと仕事ばかり輪はとじるの六章からなっていて、第一部第二部で提示されていた人々の謎めいた動きの種明かしがされていたけれども、秘密警察による謀略だったというのでは妙に釈然としなかった。第一部で「ヤツら」と仄めかされていたのもトルコ軍のことだったのかと意表を突かれたが、それとても狂人の妄想めかして描かれていて納得感はなかった。そのようなこともあって、三たび現れて最後を締めていたドクトルこそは、この「悪魔のタンゴ」という物語の作者だったのかもしれないという気がしたのだった。第一部でも表れていた図のように感じた“強風に追い立てられる人々の後ろ姿”というものが、第三部でも繰り返されていたことが印象深い。悪魔に踊らされるかの如く為す術なく追い立てられる空気の強い戦後という感じも受けた。

 そのようななか全三部を貫いて目立っていたものは、雨とカネと飲酒と排尿姿だったように思う。二十世紀後半を通したハンガリーのイメージを提示するものとして同世紀末に撮られた作品だったのかもしれない。お話そのものは、とても七時間余りを掛けて綴る内容ではない気がしたが、タル・ベーラ節を造形するうえで必要な時間だったのだろう。そういう意味での納得感は、確かにあった。リーフレットに引用されていたタル・ベーラは、最も勇気のある映画作家の一人とのマーティン・スコセッシの言葉の意図するところは、そこだったような気がする。


 続いて観た『鉱 ARAGANE』は、既に当地でもオフシアター上映がされている作品だ。五年前に二十二年ぶりに赴いた山形国際ドキュメンタリー映画祭で『セノーテ』を観て、最前列左から2番目の席という観賞条件の悪さはあるにしても、ぼんやりした画面と騒々しい音に食傷し、少し気になりながらも見送っていた映画だ。

 タイトルは見事にキャッチーで鮮やかだが、内容的には鉱物に迫る部分は皆無で、言うなれば、掘削あるいは坑夫とすべきものだったような気がする。撮影も担った監督による映像はピント合わせが遅れがちで、ぼんやりとしているのは『セノーテ』の印象にも通じる難点で、現場の捉え方も含めて、この題材であれば、NHKのドキュメンタリー番組スタッフのほうがずっと面白いものを撮りそうに思った。なにせ発破場面で映すのも爆破部分ではなく、たどたどしくスイッチを入れる坑夫の手元だったりするのだから面白くない。

 五年前の山形でも大人気でいい席が取れなかったのだが、その人気というのは、専ら師匠タル・ベーラの名がもたらす七光りゆえだったのではなかろうかと思うくらい、まるで響いて来ず、数年前に見送った直観は誤ってなかったと改めて思った。



公式サイト高知県立美術館
by ヤマ

'24.10.19. 美術館ホール



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