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山形国際ドキュメンタリー映画祭'19参加リポート | |||||
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二十八年前に初めて行った山形国際ドキュメンタリー映画祭に二十二年ぶりに行ってきた。いちおう昨春、定年退職を済ませて身軽になっていることに加え、昨秋、宮澤啓さんの訃報に接して思わぬ声掛けを戴いたことも御縁かと航空便を予約したところ、台風19号の襲来で欠航し、予定を変更して一泊二日の強行スケジュールになったが、やはり赴いてよかったと思える三十周年記念映画祭だった。 十月十四日の羽田発7:15で山形に向かい、空港連絡バスを降りて、地元のフェイスブック友達の会田さんと待ち合わせたフォーラム前に向かう路上で、大阪の松井さんに遭遇。何年ぶりかの再会がまさかの奇遇。夜の香味庵を約して別れ、面識のなかった会田さんと会ってモーニング・コーヒーをご馳走になり、故宮澤氏に縁の話を伺った後、中央公民館までご一緒してもらったら、今度は“アジア千波万波”の審査員で拙著『高知の自主上映から~映画と話す回路を求めて~』の編集をしてくださった江利川さんに路上で遭遇。二十二年ぶりのYIDFFは、なにやら幸先がいいと喜んだ。 IDカードの交付を受けて最初に観たのは、山形市民会館での『あの店長(The Master)』['14 タイ](監督 ナワポン・タムロンラタナリット)だ。“二重の影2:映画と生の交差する場所”と題された企画上映のなかの一作で、何の予備知識もなく、プログラムリーフレットに「法や権力の束縛からは逸脱する映像の力が世界には存在し」と記されていたことから選んだ作品だったのだが、思いのほか面白かった。世界の新旧のアート系作品を文字や部分写真で知るばかりで観ることのできなかった '90年代のタイで破格の品揃えを誇った海賊ビデオ店のMr.ヴァンと呼ばれたオーナー店長にまつわる数々の証言が、当時のタイの映画事情を語る年代記として綴られた秀作で、当時、僕らが携わっていた自主上映活動との接点もあり、非常に刺激的に感じられる作品だった。 映画についても自らについてもほとんど何も語らなかったと皆が口を揃えて語りつつ、言わばセレクトショップとしての選択眼の確かさに唸っていた謎の人物は、あくまで商売として海賊ビデオの販売に精出していたらしいのだが、証言者の多くが今やタイで活躍する映画監督、脚本家、批評家、大学講師などになっていて、あの店長がいなかったら、今の自分はないと語り、自分の作品の海賊版が流通することについてどう思うかと問われたりしていたのが興味深かった。本来、教育機関などの公的な機関が果たすべき“エキプ・ド・シネマ”は、当時の日本でも必要な部分があったから、僕らが自主上映に携わっていたわけだから、出てくる数々の作品タイトルを見聞するだけでも懐かしかった。おまけに、重要な年としてクレジットされたのが、'91年 '97年で始まったものだから、ちょうど僕がYIDFFに参加した年とも重なり、余計に親近感を抱いた。 続いて観たのは、メイン会場である中央公民館6Fホールでのインターナショナル・コンペティション作品『誰が撃ったか考えてみたか?(Did You Wonder Who Fired The Gun ?)』['17 アメリカ](監督 トラヴィス・ウィルカーソン)。曽祖父が'46年に起こした黒人男性射殺事件を古い新聞記事を基に掘り起こそうとした作品だったが、生存している関係者からの生の証言がエビデンスとして殆ど得られなかった事情が、ひたすら続けられる監督のモノローグに窺える苦肉の作品ながら、コンペ作品に選出されるだけの結実を果たしていることに驚かされた。巧みな反復と変奏をまるで楽曲のようにスタイリッシュな構成によって果たし、曽祖父が当時の人種差別主義社会のなかで罪を問われることのなかった顛末以上に、今や現地でも風化しているアラバマ州で起きた重要な人種差別事件を拾い上げて提示するなかで、自分の大伯母を含めて今に続く“白人至上主義”の根深さを浮き彫りにしていた。また同時に、女性に対する虐待と暴力の問題が同根であることにも言及していた。普通なら、ナレーションで語るほかに提示できる強い資料が殆ど得られなければ、作品化を断念してしまう気がするほどの様相のなかで、これだけの作品にできていることに打たれた。観終えてから、4Fに降りて映画祭本部に東京事務局長の矢野さんを訪ねるも、十四日は不在とのことで会えずに残念だった。 そこで、フォーラム5に向かい、“アジア千波万波”の『消された存在、_立ち上る不在(Erased,__Ascent Of The Invisible)』['18 レバノン](監督 ガッサン・ハルワニ)を観賞。二十二年ぶりの僕よりも遠い三十五年前に内戦のなかで行方不明になった若者の存在を追った作品だったが、観たばかりのコンペ作品の七十一年前よりは新しく生々しいだけに却って「なかったことにしたい」向きの動きが浮き彫りにされていたように思う。壁に貼られたポスターの重ね貼りの下に三十五年前の行方不明者の顔写真が立ち現われ、上塗りされて埋められていたものが甦る映像自体の持つインパクトが心に残った。軍関係者(准将)と紹介されていた人物の証言をどのようにして得たのか、知りたい思いが湧いた。 宿泊ホテルに最接近したので、チェックインを済ませ、朝、会田さんと落ち合うことを約したフォーラム3での『非正規家族(Temporary)』['17 台湾](監督 許慧如)と『セノーテ(Cenote)』['19 日本・メキシコ](監督 小田香)を観に行くと、すでに立ち見との盛況ぶりに驚いた。会場では、僕と同じ日に着いたという拙著を発行してくださった景山さんと遭遇。混んでいたので、ゆっくり話す間もないまま、最前列左から2番目の席が空いていると案内されて着席してみたが、あまりに観賞条件が悪くて残念だった。 先に観た『非正規家族』は、非正規雇用の青年と年配の男女を映画制作チームが雇って、廃工場跡で共同作業を一週間続けてもらううちに生じてくる関係性をドキュメントした作品で、人と環境の生み出す人間関係のなかに、監督が企図した通りと思しき疑似家族的な親密性が次第に漂ってくる感じが面白い短編だった。続けて観た『セノーテ』は、作り手が拘っていたと思しき映像や画面構成がほとんど捉えられないうえに、右上隅に現れる字幕も判読しにくくて言葉も響いて来ないという惨憺たる有様で、作品紹介文の「光と闇の魅惑の映像に遠い記憶がこだまする」が恨めしくなった。作中でクレジットされた「吟遊詩人である予言者、予言者である語り部」とか言われてもなぁという気になった。透明度も低い緑の水中シーンがやたらと長く、ゴボゴボ、ヒューという音が延々と続くのが次第に耳障りにもなってきた。 上映後のQ&Aの間に、どうにか会田氏との再会を果たし、おなじみのお店に案内いただいて、香味庵が開場になるまで会食し、22:00からの香味庵へ。初めてYIDFFに来た'91年に観た『映画の都』の飯塚監督、『廻り神楽』を撮った高知にも御縁があるらしい大澤監督、『破片のきらめき』の高橋監督ら幾人かの映画人たちとも歓談し、楽しいひと時を過ごした。でも、香味庵では景山さんには会えたものの、松井さんには会えずじまい。会田さんが残念がっていたのが申し訳なかった。会田さんには大いに歓待していただき、本当にありがたかった。 翌十五日は、帰高便の出発が午後一番なので、午前中に一本観るしかないなかでの選択は、コンペ作品の『別離(Absence)』['18 インド](監督 エクタ・ミッタル)。上映前の監督コメントで、原題“Birha”は、別離の哀しみを表す言葉で、英語にはそれに当たる一語はないと話していたが、日本語には「哀別」という言葉があるけどなとチラッと思った。ドキュメンタリー映画らしからぬアート系劇映画のような画面構成と編集に、改めてドキュメンタリー映画とは何かとの刺激を貰ったように思う。 中央公民館6Fホールでの観賞後、昨日に続き4Fに下りて東京事務局長の矢野さんを訪ねたが、今日は来ているものの不在とのことで残念ながら、名刺を預けて二十二年ぶりの来訪の託をしたが、山形駅発の空港連絡バスに向かう際に、フォーラム会場を覗いてみたら、奇しくも矢野さんに遭遇。亡き宮澤氏の写真を飾ったコーナーのところで、公式パンフレットの63頁に「宮澤さんの不在」との一文を寄せている矢野さんと話をすることができるという格別の奇遇が得られた。 わずか二日の滞在になってしまったが、なにやかにやで非常に刺激的だった今回のYIDFF訪問だった。 【参照】'18.10. 8.メモ もう二十年も前になる'97年に、職場の自主研修の枠を利用して山形国際ドキュメンタリー映画祭【YIDFF】に訪ねて行って以来のお付き合いとなる宮澤啓さんの思い掛けない訃報をフェイスブックで知り、呼びかけにあった(100文字でおくる言葉)に応えたところ、追悼記念誌を送ってきてくれた。折しも山口の長男宅に出向いた合間に読ませてもらったら、想定以上に充実した内容に瞠目した。とても短期間で拵えたものとは思えない。さすが、YIDFF期間中、デイリーニュースを発行し続けていた見事なスタッフ力の賜物だと魂消た。 その記念誌「温かな陽差しをたたえているような人 宮澤啓さんへ」を読むと、宮澤さん御自身が遺している文章もいくつか収められていて、なかでも「フォーラム山形」の誕生にいたる「えいあいれん物語」に感銘を受け、YIDFFの母体の変遷を綴った「人・もの・場所をつなげるシナプス―映画祭事務局この10年」を興味深く読んだ。 僕より4年早い'54年生まれの宮澤さんとは、'97年の後、全国映画上映ネットワーク会議(現 全国コミュニティシネマ会議)で何度かお会いしたほかは、年賀状の遣り取りとFBでご厚誼いただいていたに過ぎないのだが、とても印象に強く、忘れ難い方だったので、その訃報には本当に驚いた。 僕が寄せたのは「山形は遠く、数える程しか会えませんでしたが、世界的な映画祭事務局のコーディネーターでありながら、同じく東京から離れた地方都市で上映活動に携わる者同士として遇してくださったお人柄が忘れられません。合掌。」という指定通りのちょうど100文字の言葉だったのだが、多士済々の寄せた言葉のなかに、久しく会っていないものの面識のある、小野聖子さん、原一男さん、村山匡一郎さん、中島洋さんの言葉を見つけて懐かしく読むとともに、皆さんの心にある宮澤さんの姿が、わずかなお付き合いしかなかった僕のなかにあるものと寸分違わぬことに改めて敬意が湧いてきた。そして、荒井進さんの寄せている言葉がずんと響いてきた。最も長く親しく過ごしてきた方と思しき「宮沢、お前はなんとすごい男なのだ。お前の通夜に集う人々を見よ、涙が止まらないじゃないか。お前がいないことで起こる事を考えろ、どうしたらいいかわからないじゃないか。 安らかに眠れ。お前はなんて幸せな男なのだ。お墓で待ってろ。」との言葉に、改めて涙誘われた。とても、とても残念だ。 | |||||
by ヤマ '19.10.14~15. 山形国際ドキュメンタリー映画祭'19参加リポート | |||||
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