『ヴェルクマイスター・ハーモニー』(Werckmeister Harmoniak)
監督 タル・ベーラ


 雑誌「ぴあ」で観たモノクロ写真のワンカットに惹かれて観に行ったところ、独特の力と不思議な魅力を湛えた作品だったので、拾い物をした気分になったが、後でチラシを見たら、聞き覚えのある『サタンタンゴ』の監督作品ということだった。それは一度観てみたいと思っていた映画だっただけに、今回ひょんな機会を逃すことなく、同じ監督の作品を観ることが結果的にできて、大いに幸運だった。

 冒頭、釜の火窓越しに見える炎のショットから次第にカメラが引いていくと、この作品世界の語り手であり、目撃者でもあるヤーノシュを含め、たくさんの人物が動き、交錯するレストランのような空間が広がるのだが、移動し交錯する人物と同様にカメラも大胆に移動しながら延々とワンカットで撮られていて、人物とカメラの移動設計の周到さに驚いた。その後もやたらと長いワンカットのシーンが目につく。もちろん、短いカットのシーンもあるのだが、後でチラシを見て、2時間25分を37カットとあるのに驚いた。のべた平均でワンカット4分というのは半端なもんじゃない。なかでも圧巻だったのが、町の住民が暴徒と化して、集団で病院を襲うための行進を延々と撮ったシーンだ。緩やかに、うねるように、カメラが捉える角度を変えながら、それこそ延々と集団で歩く姿を映し出すのだが、あまりに長々と見せられるので、驚きや呆れも通り越して、次第に有無をも言わせない圧迫感にたじろがされてもくる。するとまるでこのシーンが、まさに有無をも言わせぬ形で時代を押し流していく力の前に、驚き呆れつつも為す術なく傍観するしかない“途中で気づく人々”の受け取る圧迫感を表現しているように思えてきた。

 というのも、場所も時代も不明のままに始まったこの映画での、町の変化、民衆の動向といったものに、ヒットラーに力を与え、ナチス党を強大にしたドイツの民衆の姿がかなり意図的に重ねられているような気がしていたからだ。ヤーノシュも最初は特に自覚もない形で、そういう時代の趨勢を形成することに明らかに加担していて、次第に何かおかしいと感じ始めた時点では、その流れを変えるだけの力は持ってないし、自分も加担した負い目があるしで、押し流されていかざるを得ない。それこそが我々民衆というものなんだろうなぁと感じていたところ、図らずも、襲われた病院での乱暴狼藉の最後にクローズアップされたのは、白いバスタブに素裸で両手を上げて局部も露に立ち尽くす痩せこけた老人の姿であった。これを観て、ナチスの収容所を想起しない者はあるまい。とすれば、町にやってきたサーカス団の巨大なトラックに覆われたクジラというのは、まさにナチズムそのものを象徴していたとも読み取れる。町の人々にとっては、未知の何だかよく判らないけれど、少し興味を惹くものとして、最初はひっそりと広場で姿も現さずに、一人一人が観覧料を払うという言わば「手続き」を経て接していたのだが、最後には、広場に堂々と姿を現わす存在になっていた。

 しかし、重要なのは、寓意に満ちた装置によるこの作品を例えばそういったシンボルの自分なりの解題をして落ち着けてしまうことではなくて、この作品に終始一貫して流れていた、有無を言わさぬ圧力で押し流す力に晒されることの心地の悪さとともにある、ある種の甘美さを体感することだろう。先導者とも協力者とも呼べる、音楽家の妻のような人物は必ず生まれる。そして、ヤーノシュのように途中で違和感を自覚し始める者も。敢えて時代も場所も不明にして、露骨にナチスを示さずに映画化しているのは、作り手にそういう思いがあるからではないかという気がした。過去の事件ではなく、現在及び未来においても常に陥る可能性を持つ“人間と社会の問題”ということであろう。それは、芸術による美学的な感性によっても、哲学の叡智によっても、止めることはできないものである。時代に押し流されだすときの、心地の悪さとともにある、ある種の甘美さを素早く察知して、警戒心をもって臨む体感力を身につけることのみが、微かに有効なのかもしれないと言っているように感じた。


推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より
http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex/2002ucinemaindex.html#anchor000823
by ヤマ

'02. 7.30. 渋谷ユーロ・スペース



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