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『夕陽のギャングたち』(Duck You Sucker)['71] | |||||
監督 セルジオ・レオーネ
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二ヶ月ほど前に観た『地平線から来た男』&『弾丸を噛め』の映画日誌に「十代の時分にテレビ視聴しているはずの『夕陽のギャングたち』を観て、確かめたい気持ちになってきた」と記していたら、合評会主宰者の映画部長が早速に貸してくれたものだ。 花火屋と呼ばれていた“アイルランドの爆弾魔”たる肝っ玉男のジョン・マロリー(ジェームズ・コバーン)が馬ではなくバイクに乗って現れる姿と、彼が全身に爆薬をまとって強盗団の首領フアン・ミランダ(ロッド・スタイガー)と対峙する出会いの場面のほかには見覚えがなかった。「…革命とは暴力行為だ」との毛沢東の言葉のテロップから始まる革命闘士の物語だったが、前作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』['68]を彷彿させるような極端なクローズアップやズームアップ、暴力的なまでの有無を言わさないカット繋ぎや長回しに、まさに映画における「革命とは暴力行為だ」と言わんばかりだなとオープニングのフレーズを想起しないではいられなかった。 このテロップに続いて始まるオープニングシーンが木に群がる蟻に小便を降り掛けたフアンの長大な陰茎の影を映し出して被せてくる♪ションションション♪なのだから、もはや唖然とするほかない。劇中にて『愛国主義』が引用されるバクーニン並みのアナキストぶりだったように思う。 それにしても、最初から最後まで徹頭徹尾、渋くカッコいいジェームズ・コバーンだった。彼の代表作であるのは間違いない。強面だったはずのものが妙に懐いてくるフアンの“打算と惚れ込みが相半ばする接近”が微笑ましく、納得感があった。また、『突然炎の如く』['61]を想起させるジョンのIRA時代のエピソードが効いていて、恋人すら分け合う親友同士だった男の名もまたジョンで、切っ掛けはフアンと同じく、同名だったことから親しくなったのではないかという気がしてきた。 思惑違いで大量の政治犯を解放し、図らずも革命の英雄になってしまったフアンの言っていた「字が読める奴らが読めない連中をけしかけた。皆、時代が変わると喜んだ。字が読める奴らが時代を変えようとけしかけた。それで変わったか? 字が読める奴らがピカピカの机に座って議論をしている間に貧しい連中はどうなった? みんな死んだ。それが革命だ」との台詞が痛烈だった。その後、家族もみな喪ったフアンがジョンと行動を共にした動機は、だから革命のためではなく、家族を殺された復讐ですらなく、ひたすらジョンと一緒に暴れたかったからのように感じた。そのような死線を共にした得難い友人への失望に見舞われることは今後、決してなくなったことをまるで喜び安心するかのような最期をジョンは迎えていたような気がする。アメリカで銀行強盗をする約束だったじゃないかと抱きかかえるフアンに「将軍…」と呼び掛け「火をくれ」と煙草を銜えた花火屋が、フアンの棄てた十字架のペンダントを渡しながら「革命なんかに巻き込んで悪かった」と詫びる場面にぐっときた。『墓石と決闘』でのアープ(ジェームズ・ガーナー)&ドク(ジェイソン・ロバーズ)にも匹敵するジョニー&ジョニーだったように思う。 そのジョンが寄せていたのは親愛より敬愛と信頼だったように思われる革命指導者ビィエガ医師(ロモロ・ヴァリ)の拷問による自白に対して、「人を裁く気はない、一度でいい」と言っていた苦衷も深く沁みてきた。アイルランドで親友を射殺した場面のカットバックが効いていた。ビィエガ医師の自白を咎める気はないものの、すんなり闘争指揮に返り咲いていることへの割り切れなさを自身のなかでも二人きりの爆走列車で確かめたかったのだろう。 また、中盤での橋の爆破シーンの凄まじさに吃驚した。最後の暴走機関車による爆破も圧巻の凄まじさだった。当時としては破格の製作費だったのではなかろうか。そして、不死身の敵役ルイス大佐(アントワーヌ・ドミンゴ)にナチスイメージを施しているように感じられたことが印象深い。数々の大量虐殺シーンが描き出されていたが、事はドイツだけで起こっていたものではないということなのだろう。邦題の『夕陽のギャングたち』とは即ち「沈みゆく革命闘士たち」だとも思える作品で、これは最早、西部劇の範疇には入らない映画のような気がしてきた。大したものだ。 | |||||
by ヤマ '24. 8.16. DVD観賞 | |||||
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