『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』(Once Upon a Time in the West)['68]
監督 セルジオ・レオーネ

 イン・アメリカを公開時に観ているものの、イン・ハリウッドは不意の上映打ち切りに観逃してしまったが、永らく宿題だった「イン・ザ・ウエスト」を三時間近いオリジナル版で観る機会を得た。

 オープニングから、いかにも濃ゆく暑苦しい顔、顔、顔のズームアップに『愛と哀しみのボレロ』['81]のオープニングを思い出しながら、余りに悠然と回っているカメラに驚きつつ、無駄にスケール感を前面に出した画面構成と音楽に少々笑いが込み上げてきて、愉快な気持ちになった。もうこういう映画は絶対に撮れないだろうなと何処を取っても思わずにいられない。

 そして、西へ西へと延伸していく大陸横断鉄道と思しきレール敷設を行っている人海戦術工事を繰り返し映し出していた本作で、最後に汽車がスウィートウォーター駅に到来するとともに、シャイアン(ジェイソン・ロバーズ)の遺体を乗せた馬を引きつつ鞍に跨ったハーモニカ(チャールズ・ブロンソン)が退場していく姿を延々と映し出していたエンディングを観ながら、シャイアンもハーモニカも敵役フランク(ヘンリー・フォンダ)さえも、矢鱈とカッコつけた男たちが登場し、こうして揃って退場していく作品だったなぁとの感慨を覚えた。19世紀のアメリカ西部には、オープニングで登場していた名もなき連中を含めて、ごろごろしていたはずの男たちもまた、いまや何処にもいなくなっているのだろう。

 最も味があったのは、マクベイン父子殺しは濡れ衣だろうとの問い掛けに「俺は何でも殺すが、子供だけはやらない」と言っていたシャイアンだった。ジェイソン・ロバーズの砂漠の流れ者/ケーブル・ホーグのバラード['70]での好演を想起せずにいられなかったせいか、楽しみにしていたクラウディア・カルディナーレは、ステラ・スティーヴンスには及んでいないなと思いつつも、シャイアンが彼女に求めたコーヒーの注文台詞の「ホット、ストロング、グッド」どおりの“熱くて濃くて美味そうな”女ジルをそれなりに好演していたようには感じる。心身ともに背筋の伸びているところがいい。

 シャイアンのこの台詞は終盤に出てきたものだが、始めのほうでフランクに嵌められた現場確認のためかマクベイン家を訪れた際、思い掛けなく滞在していたジルに出くわして不躾にコーヒーを淹れろと横暴な振る舞いで取り繕った場面と呼応しているところがいい。そのとき身の危険を察知したジルが「好きにするがいい、平気だよ。熱い湯に入っちまえば、元通りさ。」と啖呵を切った気っ風に惚れたのだろう。男の性暴力に対して、かような態度で臨める女たちもまた、いまや何処にもいなくなっているような気がする。その女っぷりの見事さにシャイアンは手を出せずに帰っていたわけだが、最期に一目会っておきたいと訪ねてきたのだろう。だが、程なくして辞去を告げに来たハーモニカのほうに彼女の心があることを察知して、おもての工事人夫たちに酒を振舞うよう告げて出て行っていた。フランクがハーモニカとの決闘に倒れ、ハーモニカも去ったのち、ジルがシャイアンの言ったとおり酒瓶を担いで回って工事夫たちに振舞っていた。彼女だけは、時代が変わっていっても退場せずに残っているわけだ。キャストクレジットのトップが彼女になっていたのは、そういう意味でもあるのだろう。その立ち居というか姿勢が颯爽としていて、なかなか美しかった。でも、本作の劇中で入浴させるのであれば、「やはりステラばりのシーンがほしいじゃないか」と思わずにはいられなかった。

 そのようなことを呟いていたら、ネットの映友から「偶然ながら「ウエスト」も「ケーブルホーグ」も駅を巡る物語でしたね」と言われた。それで思ったことだが、あれほどに広大な西部の景色も、あのような寡黙で濃い男たちも、もうすっかり姿を見せなくなっている気がするものの、新駅というのは、駅馬車だろうが、鉄道だろうが、新幹線だろうが、リニアだろうが、今も変わらぬ巨大利権だ。身体に不具合を抱えながらもカネだけは唸らせていた鉄道事業者モートン(ガブリエル・フェルゼッティ)やその片棒を担いでいたフランクのように、地べたに頬付いて目を剥いた野垂死にを遂げている男たちは、いまも変わらずいるのだろう。




推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
https://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/20081802/
by ヤマ

'20. 8.24. あたご劇場



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