『死刑台のメロディ』(Sacco e Vanzetti)['71]
『十二人の怒れる男』(12 Angry Men)['57]
監督 ジュリアーノ・モンタルド
監督 シドニー・ルメット

 今回の課題作は、ともに十代の時分にTV視聴して震撼したというか、強い感銘を受けて、映画に対する関心をぐっと引き上げてくれた作品だった覚えのあるカップリングで、楽しみにしていたものだ。こういう映画ほど、若い時分に観ておくべきだと改めて思った。

 先に観た『死刑台のメロディ』は、十三年前にショージとタカオを観た際にも最終的に無罪を勝ち取った二人と処刑された二人では、結果の違いが大きいけれども、…サッコとヴァンゼッティもショージとタカオと同じく大男と小柄の対照があったような覚えがあって、作品タイトルにもサッコとヴァンゼッティの二人のことが意識されているような気がした。などと言及していた作品だ。

 てっきりモノクロ映画だと思っていたら、それは最初と最後だけで、映画としてはカラー作品だったことに驚いた。最後に流れるジョーン・バエズによる勝利への賛歌は、抗議の声を挙げた群衆の姿とともに延々と力強く響いていたように記憶していたのに、エンドロールのクレジットとともに流れて狼狽した。彼女の歌声が強い印象を残していたからか、アメリカ映画だと思っていたものがイタリア/フランスの合作で、'60年代作品のつもりでいたものが、'71年作品だった。

 日本のドキュメンタリー作品『ショージとタカオ』の映画日誌では郵便不正事件に言及しているが、本作をほぼ半世紀ぶりに観る今でも、先ごろ大川原化工機事件が起こったばかりだし、袴田事件は六十年近くも検察が引っ張り続けていて、サッコとヴァンゼッティ事件が起こった1920年代のアメリカと何ら変わるところがない有様だ。

 それはともかく、先ごろ佐高信 著 反戦川柳人 鶴彬の獄死』<集英社新書を読んだ際に大逆事件で処刑された幸徳秋水は本県の出身者だが、そのことを知る以前の十代時分から何故か僕はアナキズムに共感があって、バクーニンもクロポトキンも読まないままに大学時分にそのことを表明すると驚かれたものだった。だが、僕の思うアナキズムは正に本書に記されている「無政府主義(アナキズム)は相互扶助を原理とし、ゆえに政府は要らないという思想」(P183)だった。と記したことに繋がる契機は、もしかすると本作だったのかもしれないとも思った。ニコラ・サッコ(リカルド・クッチョーラ)もバルトロメオ・ヴァンゼッティ(ジャン・マリア・ヴォロンテ)もアナキストを自認していて、死刑執行前に弁論の機会を与えられたヴァンゼッティの演説が見事だった。エンニオ・モリコーネ作曲の♪Here's To You♪を「勝利への賛歌」と訳した所以は、ジョーン・バエズによる歌詞の一節♪That agony is your triumph♪以上に、この演説にあるような気がした。


 一日置いて観た『十二人の怒れる男』では、陪審員十二人全員が男性で、会議テーブルには列を為して灰皿を据えてあるという、今では考えられない昔懐かしい光景のなかで繰り広げられる熱い論戦を観ながら、本当によくできた脚本【レジナルド・ローズ】だとつくづく感心した。

 俳優座による舞台劇は三度も観ていて、ロシア版12人の怒れる男も観、日本版12人の優しい日本人も二度観ているのに、本家本元は、十代の時分にテレビ視聴したっきりだった。そして、『12人の怒れる男』の日誌に暑苦しい陪審員室から解放され、裁判所の石段を降りながら空を見上げつつと記していた部分が、オープニングのような仰ぎ見る角度では一度も映し出されなかったことに狼狽した。建築家のデービス(ヘンリー・フォンダ)が陽射しを仰ぎ見る記憶があったのに、雨上がりの濡れた石段だった。

 シチズンシップに対する責任感を誇らしげに語る人物【11番陪審員(ジョージ・ヴォスコヴェック)】のいたことが感慨深い。我々には責任がある。これが実は民主主義の素晴らしいところだ。…この国が強い理由はここにある。との言葉にアメリカン・ゴールデンエイジとも称される'50年代を感じる。国から課せられた義務ではなく、市民としての義務に対する自覚というものがすっかり希薄になってきている現代だけに、余計に七十年近く前の本作を眩しく感じた。なにせ我が国では、国会議員たちが選挙で得た議席を“保守”するためなら、バレさえしなければ何をやっても構わないと思っている輩ばかりのように見受けられる時代なのだ。

 『死刑台のメロディ』の舞台となった'20年代もまた、アメリカン・ゴールデンエイジと呼ばれることのある派手でバブリーな時代だったようだが、同じく移民でも両者の違いの大きさが際立っていたように思う。そういう意味でも期せずして非常に興味深いカップリングになっていた気がする。眼鏡なしでは見えないはずの女性による目撃証言が両作ともに出て来ていたのも興味深い。人の世にありがちなことだけれども、証言ほどに危ういものはない。裁判なるものの心許なさの根底部分だという気がする。先ごろ観たばかりの「ヒューマニエンス 40億年のたくらみ『“記憶” 未来を切り拓く源泉』」でも明かしていたように、絶えず上書き更新され、思惑に支配される“人の記憶”ほど油断ならないものはない。

 印象深かったのが、11対1から動き始める最初に9番陪審員の老人マカードル(ジョセフ・スウィーニー)が言ったこの方が1人で反対された。無罪とは言わず確信がないと言った。勇気ある発言だ。そして誰かの支持に賭けた。だから応じた。…多分有罪だろうが、もっと話を聞きたい。との言葉だ。その彼の思慮深さと対照をなす無関心でさっさと済ませたいだけの7番陪審員(ポール・ハートマン)の配置が利いていた。彼に顕著な“安直で手軽な効率ばかり求める安近短志向”の蔓延が世の中の質の低下を招いている気がしてならない。


 公権力の横暴に対する警戒と監視の必要性を訴えていたとも言える両作だったように思うが、合評会では、ともに秀作だとするなか、総じて『十二人の怒れる男』により高い支持が集まった。これだけ行き届いた脚本を前にすれば、当然のことだろうと思ったが、『死刑台のメロディ』についてアメリカの事件の法廷劇でありながら、専らイタリア語で繰り広げられるところが気になったという意見が複数者から出されたことが興味深かった。伊仏合作とはいえ、ほぼイタリア映画なのだから致し方ないところだが、それでは何故、僕は本作をアメリカ映画だと思っていたのだろうと振り返ると、半世紀前のTV視聴だったから、吹き替え版で観ていたからに違いないと思い当たった。

 差別と偏見に満ちた暴言をまくし立てる10番陪審員(エドワード・アーノルド)に対しても、次々に黙って背を向けテーブルを離れることによって抗議を明らかにするなど、一度も激することのなかった陪審員のほうがむしろ多くて、理性的なアメリカ市民の姿を印象づけていた『十二人の怒れる男』なのに、なぜ“angry”なのだろうと問い掛けたところ、冤罪を生む司法制度に対する作り手の怒りを陪審員に託した作品だからではないかとの意見があって面白かった。僕自身は、かねてより“angry”には日本語の“怒り”とは少々異なる意味やニュアンスがあるのではないかと思っている。激論を交わすエネルギーなり熱意のようなものを意味しているという気がしているところだ。また、ニコラの妻ローザ(ロザンナ・フラテッロ)の美しさに魅せられたのに、他の出演作でお目に掛かったことがないという嘆きもあって愉しかった。

 加害者報道ばかりで被害者の声が蔑ろにされていた反動からなのか、矢鱈と被害者報道に熱を入れるとともに、巷で厳罰化が煽られるようになったのは、今世紀になってからか昭和の時代が終わってからか、いずれにしてもこの三十年ばかりの国家主義の伸長と軌を一にしているように常々感じているのだが、我が国でも始まっている裁判員制度では量刑が重くなる傾向にあるのは、本作での12番陪審員(ラーキン・フォード)のように自身で判断する物差しを持ち合わせず、周囲への同調によって立ち位置を決める者が日本人に極めて多いように感じられることと無関係ではない気がするから、陪審員制自体が日本には馴染まないように思うと述べると、天邪鬼傾向の強いヤマさんは裁判員に選任されたら、間違いなく8番陪審員のようなことを言うんだろうねと揶揄され思わず苦笑した。すると奇しくも合評会の二日後の新聞報道で、我が国の裁判員制度が開始から十五年になることが報じられ、その辞退率の高さが指摘されていた。制度開始以来、50%を超える辞退率が続くばかりか徐々に増えて今や65%を超える高止まり傾向にあるようだ。そして量刑が導入前より重い傾向が続いているとも報じられていた。
by ヤマ

'24. 5.13. DVD観賞
'24. 5.15. DVD観賞



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