『悪は存在しない』(Evil Does Not Exist)
監督 濱口竜介

 表現において何をどこまでどういう形で描くかは、非常に重要な肝心の部分だ。そこのところを刺激してくるという意味で観終えた後に尾を引く映画は、大いに僕の好むところだが、作り手の企図どおりあれこれ反芻しながらなお、本作最後の思わせぶり加減には、余りしっくりこない独り善がりを感じて少々いただけなかった。

 タイトルからして思わせぶりな技巧的な仕掛けによって、その名と対照的な不器用さと朴訥を窺わせる巧(大美賀均)の存在感と好対照を成しながらも、同様の不器用さと朴訥を漂わせるディベロッパーの担当者高橋(小坂竜士)が印象深い。安村巧の最後の行動を映し出した場面が意味していたものは何なのか、反芻を促された。山村に暮らす人々と都会から訪れた開発業者を描いてありがちな構図には置かず、資本に毒された開発者の悪辣さも、時流から置き去りにされた田舎人の猜疑心や頑迷も、いっさい覗かせない設えには共感するところが大きく、何か事件が起こりそうな不穏を覚えつつ、芸能事務所のマネージャーから異業種業務に担当替えさせられていた高橋と介護福祉士からの転職者である助手の黛(渋谷采郁)がどうなっていくのか見守っていたら、いささか拍子抜けした。

 敢えて解するなら、先立たれたと思しき妻への喪失感に苛まれつつも、娘の花(西川玲)ゆえに、鹿の精にコミットする形の山人として生き永らえていた巧が娘をも喪って旅立ったということなのかと思ったが、どこか聖なる鹿殺しを偲ばせる設えを講じたラストを僕はあまり支持していない。

 僕にとっては、巧よりも高橋と黛のほうが遥かに気がかりな存在だったからだ。おそらくそれは、グランピング施設設置に係る住民説明会での二人と対になった、社長命令によって巧を訪ねる長距離ドライブの車中での二人の会話によるものだ。その線に沿って興味を惹かれていたものだから、ラストで脱線してしまった気がしている。

 グランピングなどという言葉は僕の語彙にはなかったものだが、どうやらグラマラスなキャンプという意味らしい。グラマーとかグラムロックという言葉が想起させる見た目の豪勢が支持される所以だとするなら、作り手の映画スタイルとは、ある意味、真逆と言える気がするものだから、今どきの山村の開発案件に風力発電や太陽光発電施設とせずに、敢えてグランピングを持ってきているところがまた、なかなか思わせぶりだという気がした。もっとも発電施設だと合併浄化槽に絡む水質汚染問題が絡めにくいということはあるかもしれない。三十年くらい前だと間違いなくゴルフ場開発にしていただろうが、今そうすると、流石に時代錯誤感が免れないことも手伝ってのグランピングだったのかもしれないが、妙にグラマラスという言葉でフックを掛けられている気がした。

 画面にも言葉にも凝った仕掛けが施されている感じが強く窺えるなか、芸能事務所とはいえ、レジャー施設の設置による開発をしようとする事業者の会議の空間的人員的貧相が妙に気になった。予算的制約によるものだったのだろうか。
by ヤマ

'24. 5.15. あたご劇場



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