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ロマンポルノ女性友の会“井田祥子セレクションⅠ”
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この夏、朝日新聞の家庭欄で“アダルト映画 女性が共感”との見出しの記事で紹介もされていたウェブサイト「ロマンポルノ女性友の会」の井田祥子さんから観てほしいと薦められた作品である。二十代の女性から、そういう映画が嫌でなければ、ぜひ観てほしいと頼まれることが起ころうとは、かつて僕がまだ若かりし頃、ひっそりとポルノ映画を覗きに行っていた時分には想像もつかなかったことだ。時代が変わったのだと言えば、一言で済むのかもしれないが、僕にはとても興味深いことで、いろいろと思うところがあった。 支持しているという女性たちに確かめたわけではないのだが、僕らにとっては、どこかノスタルジックな気恥ずかしい記憶の貼り付いている作品群が、彼女たちにとってみれば“再発見された”とも言うべき映画作品なのだろう。ある意味で既に日本の映画史の一端を担うジャンルとして一時代を画し、その功績も認められるに至っているという背景も好もしく作用しているのかもしれない。しかし、僕が思うに、決定的だったのは、実は彼女たちがロマンポルノの存在よりも先にアダルトビデオの存在のほうを知っている世代だったからではないだろうか。 美しく撮ろうが、恥態の限りを尽くそうが、女性をひたすら客体としてカメラの対象物とし、実際の行為を生々しく撮り上げるのがアダルトビデオだろうという気がするから、性行為が商品化された映像作品というのはすべからくそういうもので、そこにおいては、その行為とそれを成立させてくれる女性の存在が即ち欲望としての対象物であり、映像作品はその代償を果すファンタジーだというパラダイムが、ある種の前提条件として彼女たちのなかに整っていたのではなかろうか。もしそうであれば、彼女たちが今に残るポルノ映画の佳作群を初めて観たときには、大きな衝撃があったと思われる。それは、僕らが初めてアダルトビデオを観たときに受けた衝撃と同じ程度の強さで、ちょうど反対方向にむいて作用したのではないかという気がする。 つまり、性行為をそのものずばり身も蓋もなく映し出したり、女体を撮ることだけに終始するわけでもない、映画としてのドラマやテーマあるいはメッセージが様々な形で宿っていて、低予算のチープさのなかで工夫を凝らした「表現としての映像」とともにあることに驚いたのではないかということだ。ちょうど僕らが初めてアダルトビデオを観たころに、そのあまりなストレートさに驚き、確かに無駄を省いて結局のところ一番観たい部分に特化すれば、その合理的な帰結として至る一つの姿だと納得はしつつも、インパクトの代償に得難い味わいを失ったように感じた、ポルノ映画からはぎ取られた部分に、彼女たちは僕らとは逆に発見という形で出会ったのではないか。 あらかじめ、そのような予見をもって臨んだせいもあって、祥子さんの5本のセレクションがどのような作品なのか、大いに興味が湧いたものだった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 850本あるらしい日活ロマンポルノのなかから祥子さんがセレクトした作品は、 '72年から '81年までの十年間から選ばれた5本だった。 '71年から十五年あまりの間の十年だから、言わば初期から後期に渡っている。僕が当時観たことのある作品は、武田一成監督の『おんなの細道・濡れた海峡』だけだったが、この映画は、僕が '81年度に観た邦画ベストテンにも入れてあった作品だ。今回、二十年ぶりに観ても惹かれるものがあった。5本のなかでは、 '80年代の二作品が段違いに充実していて、初見ということもあるかもしれないが、最も魅せられたのは、池田敏春監督の『天使のはらわた・赤い淫画』だった。 池田監督の作品では '86年に観て、その年の自分の邦画ベストテンにも入れてあった『魔性の香り』のスタイリッシュで切れのいい映像感覚と音楽が印象にあったが、この作品でもそれらが遺憾なく発揮されている。品のいい清楚な顔だちの泉じゅんが『魔性の香り』の天地真理よりも魅力的で、冒頭、ネガポジ反転で映し出されたビニ本「赤い淫画」の緊縛写真やその下着の青のイメージと続く電気こたつのなかで股間を捉えたオナニーシーンの赤い光の対照も鮮やかだ。いかんせん3倍速のダビングビデオ画像であるために赤の色が潰れていて不鮮明きわまりないのが惜しまれたが、この作品は、色使いだけでなく、カメラの動きや構図にも工夫が凝らされ、中盤の逃げる名美(泉じゅん)と追う村木(阿部雅彦)のかなり長い追い掛けのシーンも印象に残っている。特に、逃げる名美と逆走した地下道でのショットは鮮やかだった。夜の公園のシーンで降り落ちる雨を村木が仰ぎ観る動きと同調する形で捉え、より打たれる感覚が強調されていた映像も効果的だった。 しかし、ポルノ映画である以上、エロティックなシーンが妖しく面白くなくては、お話にならない。その点でも、序盤では村木のアパートの向かいに住む女子高生とおぼしき聖子(伊藤京子)の“生卵をコンドームに包んで股間に挿入し、鉛筆三本で押し入れたまま中で割り砕くオナニー”とか、村木の妄想に出てくる“潤滑ゼリーまみれでくねる名美の裸身”とかのヌルヌル感が際立っていたし、終盤の名美の“結び瘤つきの股縄オナニー”もかなり妖しく、ひっくり返したコタツの脚までも挿入して腰を振るのは、いささか漫画チックでやり過ぎにしても、カメラだけに留まらない意匠の豊かさが観応えに繋がっていた。 『天使のはらわた・赤い淫画』の赤い傘に対して透明のビニール傘が印象に残るという点だけではなく、『天使のはらわた・赤い淫画』の最後の場面が午後7時の約束だったのに対して、銀行のシャッターが一斉に上がる午前9時という時刻が最後の場面である『牝猫たちの夜』は、ある種の意匠を凝らしているという点で、共通するところのある作品だが、映画としての魅力ということでは比較にならないように感じた。最後の場面での散水車の水など、せっかく面白い素材に目を付けたのだから、もう少し工夫のある撮り方がされてしかるべきだ。 ある種の奇抜さは、あちこちに盛り込まれているのだが、どうも生かし切れていないように思う。ソープランドなどという呼称ではなく、まだトルコ風呂と呼ばれていた時代の、いわゆる風俗ものとおぼしきタイトルなのだが、その企画に対して脚本のほうで妙な色気を出したというか、バイセクシャルの本多(吉沢 健)と誠(影山英俊)の関係を昌子(桂 知子)に絡めて不思議なトライアングルを持ち込んだり、中途半端な観念性や象徴性を取り入れようとしたために散漫になっている気がする。 牝猫たるトルコ嬢三人のトライアングルのなかにきっちりと風俗業界の生態のあれこれを描き込んで、逞しく生きる女性像を率直に提示すればよかったのに、少々欲張り過ぎたように思う。 それはそうとこの作品で、通路や外観は団地マンションなのに、中に入るとまるでラブホテルの部屋になってしまうのを観て、当時のポルノ映画はみんなそうだったことを懐かしく思い出した。時間貸しのラブホテルを借りるしか予算がなくて、セットも組めなかったのだろう。それからすれば、上空からは誰にも見られるはずがないデパートの屋上での愛撫に、予想外のヘリコプターを目にして昌子が狼狽とも興奮ともしれない様子(演技力が足りないけれども)を見せるシーンは、むろんチャーター便ではないのだろうなとつまらぬことを思った。 この作品と同じ年に撮られた『(秘) 女郎市場』は、貧農の娘を神主の開く女郎市場で女衒が買っていく時代劇だ。時代劇のくせして「バスト90」だの「ハウ・トゥ・セックス」だのという台詞があるのだが、この年には、今年『光の雨』で映画化もされた連合赤軍による大量リンチ殺人事件があって、ジロリの紋次(五條 博)が「“総括”だけは勘弁してくれ」という台詞があったりもするので、奈良林祥を思い起こすまでもなく当時の流行語だったのだろう。 お新を演じた片桐夕子の肌の白さと豊かな乳房がビデオながらも眩しく、映画もまた彼女の明るさと屈託のなさを讃えるかのような作品だった。女郎に売られながらも予期せぬ椿事によって処女のままで居続けるという破天荒な筋立てで、遊廓を牛が駆け抜けたり、音楽の使い方にもどこかとぼけた味があって、全般的にアナーキーな香りの漂う作品だ。 情感的なものを漂わせているところが特長的だったのが『さすらいの恋人・眩暈』と『おんなの細道・濡れた海峡』だった。『さすらいの恋人・眩暈』は、小沼作品にしては、エロスや女の凄みの部分に弱さがあるように思う。彼のSMものでよく目にした、例によっての“関係性における主導権の逆転”が訪れた最後の白黒実演ショーでのトオル(北見敏之)の不如意に際してキョウコ(小川 恵)が開き直った胆力を見せる場面など、小沼監督本来のものではないような気がするが、単に僕が小川恵に性的魅力をあまり感じないからかもしれない。 冒頭の氷の張った池へ女優に入らせるところなどには小沼趣味が窺えたりもしないではないが、むしろ目を惹いたのは、中島みゆきの『わかれうた』をバックに、あてどのなさと貧しさをまとわりつかせながら、仲睦まじく同棲時代を過ごすトオルとキョウコの姿の寸描を重ねた部分だった。上村一夫の劇画の趣とは異なるけれども、キョウコという名前には劇画『同棲時代』が色濃く影をさしているような気がする。 とすれば、この作品は '70年代後期の映画だけれども、感覚的にはむしろ '70年代初めのようなところがあるとは言えまいか。希望なき時代の若者の心象として、ある種の倦怠感や虚脱感を漂わせ、そのなかで足掻くような青春の血のたぎりを描いてブームともなったとされる劇画の世界を追憶するような、いささか同時代性を欠いた古さを感覚的に宿していたように思う。ヨットレースに出るという同じ夢をかつては共に追った仲間同士の、怨讐に囚われた抗争と逃避行には、学生運動が敗北と内ゲバに転落していった姿が偲ばれるようにも感じる。そこを観ても '70年代初めの熾の燻りのような世界だという気がした。 『さすらいの恋人・眩暈』と同じように決してポジティヴな感覚ではないけれども、比較にならない得難い味わいを情感として漂わせていたのが武田一成監督の『おんなの細道・濡れた海峡』で、これも '80年代初めの作品だ。同じ '80年代初めの佳作『天使のはらわた・赤い淫画』に描かれていたのが“ヌルヌルとした触感”だとしたら、こちらは決して馨しいとは言えない“生身に貼り付いた匂い”だった。 抜き差しに耽って抜き差しならない関係になった女の抜けた虫歯を持ち歩き、匂いを嗅ぐ。憑かれたように耽ったセックスの後で、女の陰毛やら頭髪やらの抜け毛を火にくべる匂い。行きずりに知り合った女と連ればる形で尻を落とし、露天の道端で積雪のうえにする排便の匂い。映画は、匂いまでをも直接的には表現し得ないけれども、生身に張り付いた、美醜好悪の一言では片付けられない匂いを意識させることで、匂ってくるかのようなセックスの生々しさを感覚的に呼び起こすのだ。そのことによって観る側には、そういう生身をぶつけ合い、分かち合うことがセックスであって、愛などというものは、後から付いてくるオマケのようなものだという気さえ生じさせる。そして、そのぶつけ合いや分かち合いを貪り求めさせるものが、カヤ子(桐谷夏子)の台詞にもある“ボロボロよりさみしいポロポロ”という人間存在のさみしさなのだろう。東北の雪に覆われた冬景色が、そのさみしさを引き立てていた。 直木賞作家の田中小実昌の原作は谷崎潤一郎賞の受賞作だが、ボクを演じたフォークシンガーの三上寛は、その原作者を彷彿とさせる体型と雰囲気を備えていて、僕がこの作品を初めて観た一人身の時分には、あの風采でこんなに濃厚な女淫を次々と重ねられることを半ば羨みながら観た記憶がある。今にして思えば、体型を真似るのは簡単だが、あの雰囲気をそれこそ匂い立たせるのは、半端なキャラクターでは無理なことがよく解る。だが、女性は若くても年増でも瞬時にそれを嗅ぎ分けるのだろう。そういう意味でも、女の嗅覚というのは大したものだというべきところで、「やはり匂いを主題とした映画なのだ!」とも言えるのかもしれない(笑) 。 『天使のはらわた・赤い淫画』を観ても思ったことだが、佳作のポルノ映画というのは、大概にして“ポルノ映画である以上、エロティックなシーンが妖しく面白くなくては、お話にならない”という約束事を全うしているものだ。この作品でも、最初のカラミのシーンからして人妻ストリッパー島子(山口美也子) の激しい乱れようが妖しく引き付けるだけのものを持っていた。そこに物語の進展とともに匂いの要素を加えてくるのだから、忘れがたい味わいを残してくれたのだろう。 *天使のはらわた・赤い淫画 推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2004tecinemaindex.html#anchor001079 | ||||||||||||
by ヤマ '02.10.20.~10.21. VTR | ||||||||||||
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