『モリー先生との火曜日』(Tuesday With Morrie)['99]
『セイブ・ザ・タイガー』(Save The Tigar)['73]
監督 ミック・ジャクソン
監督 ジョン・G・アビルドセン

 コメディ俳優として一世を風靡したジャック・レモンの味のあるシリアス演技を堪能できる劇場未公開作品を続けて観た。

 先に観たのは、遺作となった『モリー先生との火曜日』だ。加藤健一事務所による舞台公演を十年程前に観たときに、映友女性から舞台版は全く知りませんが、ドラマ版のジャック・レモンのモリー先生好きです。未見でしたらぜひぜひ。と勧められていた作品でもある。観劇の二年後には原作本も読んだ物語だ。

 1994年の夏にALSの自覚症状が現れ、翌年十一月に七十八歳で亡くなった老教師モリー(ジャック・レモン)と大学の教え子ミッチ(ハンク・アザリア)の十六年ぶりの再会と交流を描いていたが、ジャック・レモンの遺作に相応しい秀作だったように思う。

 モリー先生の現代の文化は若さを賛美するとの言葉に、確かに昔は年長者の経験と知恵を重んじていたことを思い出しつつ、前世紀末のネット検索がまだ一般化する前から既にそうだったのだから、古老などという言葉が今や死語となり、老害があからさまに指摘されるばかりか、PLAN75といった映画が現れてくるのも致し方のないところなのかもしれない。

 仕事・カネ・野心に囚われて、人生の大切なことを見失いかけていたミッチが、必要なのは人生についての教師だとの気づきを恩師との語らいのなかで得ていく過程が清々しい。観劇時に人にとっての言葉というのは面白いもので、同じ言葉であってもどういう関係にある誰の言葉であるかによって、その効用が全然違ってくるし、心への作用の仕方が異なってくる。モリー先生の言葉がさして変哲のあるものではなかっただけに、そういった人の心の真実のほうが浮かび上がってくるように感じられた。
 黒澤作品の『生きる』を観た27歳のときの映画日誌「生きる」ということの本質は何なのか。それを問う鍵は、主人公の「私にはもう時間がないのだ」という言葉にあるように思う。つまり、自分が生きている時間への不断の認識なのである。今その時その時への強い自覚である。と書き残し、熊井監督の『海と毒薬』を観た28歳のときの映画日誌人間が人間であるのは、物事に意味を見出すからである。同じ結果でも、プロセスの持つ意味合いによって、それぞれを違うと感じるからこそ人間なのである。むしろ、結果以上に、意味のほうにこだわるのが人間ではないだろうか。いつの頃からなのだろう、そうは言いながらも、意味より結果のほうが幅を利かせ始めたのは…。そして、その傾向は、ますます助長されてきている。それとともに、世の中が、どんどん非人間的な社会になってきている。効率性や数字が今ほど力を持った時代は、かつて存在しなかったのではないだろうか。と綴っているようなことが、ケータイ所持を拒む僕の今の生き方の根底にあるような気がしているのだが、モリー先生との再会までにミッチがそういう価値観に出会ったことがないなどということは、とても考えられない。
 気に留まらなかっただけなのだと思う。その代り、気に留まりさえすれば、ミッチの能力と行動力は、それらを踏まえ形なすことにおいて、渡邊勘治(志村喬)が残した児童公園以上のことを果たしてしまうのだろう。僕には到底まねのできないことだ。
とのメモを残しているが、とりわけ今の時代に響いてくるのは人を踏み付けて稼がないという言葉のような気がした。

 そして、拙著鑑賞会の例会企画や運営については、年齢が二回りも三回りも違う私たち運営委員の合議を最優先にしてきた非常にリベラルな方P112)と記した高知映画鑑賞会の川崎康為さんと、同会解散後もほぼ毎週のように夜、訪問して談義を重ねていた日々を懐かしさと疚しさとともに想起した。


 次に観た、ジャック・レモンがアカデミー主演男優賞を受賞した『セイブ・ザ・タイガー』は、少なからぬ従業員を抱えて企業を経営する社長業のプレッシャーの厳しさをひしひしと感じさせる作品で、思いのほか面白かった。保険金詐欺という非常手段に訴えてでも会社を維持させようとするワンマン社長のハリー・ストーナー(ジャック・レモン)と、それに対して断固として異議を唱える経理責任者で長年の相棒フィル・グリーン(ジャック・ギルフォード)との関係が絶妙だった。

 社会にはルールがあるとのフィルに対して今はルールはなくて、審判がいるだけだと嘯くハリーに私はそうは思わない。我々がこんなことを始めたら、国は滅茶苦茶になるとフィルが言っていたことの成れの果てが、今のやったもん勝ちの強欲資本主義を新自由主義の名の元に国家レベルで行うようになっている現在なのだから、ちょうど半世紀前に予見していたとも言える作品のようにも感じた。ルール無用、審判の眼を掠めることが出来るか否かが勝負を決する社会というわけだ。

 イタリア戦線を生き残ったカプリ島の名を己が経営する服飾メーカーの社名にし、かつて兵士の流した夥しい血で染まっていたビーチが若い女性のビキニの尻で埋まっていると漏らし、成りたかった野球選手の道とは掛け離れた生活のなかで精神を病みかけ、ファッションショーの開幕スピーチでも、血塗られた兵士の姿を客席に観るに至っているハリーが、ナチスのユダヤ狩りから生き延びてハリーの元で長年パタンナーを続けているマイヤー(ウィリアム・ハンセン)から、何を求めて生きているのかと問われる場面が印象深い。ビバリーヒルズに住み、自動車電話付きの高級車に乗りながら、金策に追われているハリーが、嫌な得意客とはいえ、世話した娼婦の訪れたホテルの部屋で死にかけたフレディ(ノーマン・バートン)を災難だと吐き捨てて、フィルから仮にも人の生死を災難と観るようになっているのかとの驚きの眼で観られて傷んでいる姿が目に留まった。

 戦争といえばベトナム戦争しか思い浮かばず、アメリカはイタリアとは戦っていないなどと言う若いマイラ(ローリー・ハイネマン)の屈託のなさにささやかな癒しをハリーが得たところに、手違いから放火詐欺を中止して前金を返却しにきたチャーリー・ロビンス(セイヤー・デヴィッド)が再び現れたときには、そう来るのかと納得しかけたが、作り手はそこから再び苦い結末へと舵を切っていた。ルールなき社会へ向かうアメリカの流れは止まらないということなのだろう。

 だが、審判しかいないと言っていたハリーが、フレディの件でのプロの娼婦らしからぬ不手際を詫びに来たマーゴ(ララ・パーカー)に対して誰にでもミスはあると庇い、審判としては臨まなかった姿に、絶滅の危機を迎えている虎のように稀少化してきている価値観を救援したい作り手の思いが窺えるような気がした。野球選手の夢どころか最早、草野球の少年への返球も大きく逸れて下手くそ呼ばわりされてしまうハリーの先行きは、相当に暗いようには思われるけれども…。




参照テクスト:『モリー先生との火曜日』原作読書感想文
by ヤマ

'23. 6.22,30. DVD観賞



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