『生きる』&『乱』
監督 黒澤 明


 同じ監督の33年前の作品と最新作を続けて観た。どちらも老人の絶望と孤独と己が生への悔悟が描かれている。語り口も展開も映像美もスケールの大きさも『乱』のほうがよく出来ているのに感銘がない。浮び上がってくる情感に決定的に差がある。また、『乱』の登場人物がいかにも類型的で陳腐な印象を与えるのに対し、『生きる』のほうは平凡な人物たちがリアルに生き生きと描かれている。


 自分がガンであることを知り、愕然とし、初めて己が生を見つめ直してその空しさに茫然としてしまった男が、唯一の生きがいだった一人息子にも受け入れてもらえず、途方に暮れて巷を彷徨う姿が実にあわれで哀しい。何処からも誰からも癒されず、若い娘小田切の屈託のなさにだけ安らぎを得て、気味悪がられるくらいにつきまとう。無様なくらいにあわれで哀しい。志村喬の名演である。何故に彼はそのような生を送らねばならなかったのか。それは、「生きる」ということについて真剣に考えてみたことがなかったからであり、また、そのゆとりがなかったからであろう。その彼が小田切の「課長さんも何か創ってみたら」との言葉に藁にも縋る思いで、児童公園の建設に全力を尽くし、鬼気迫る執念で困難の末、実現させる。そして、その公園のブランコで冬の夜、独りぼっちで死んでいく。本当のところは誰にも理解されないままに。ただ一時の感銘を周囲の者たちに与えただけで。

 ここで面白いのが公園以前と公園以後で、「生きながら死んでいる」「生きた!」という明らかな違いを見せながら、その違いは外見的なところから与えられてくるのではないということだ。彼はそれまで自分のために生きることをせず、息子のために生きてきて、結果、空しかったが、公園とて同じである。それを自分のためというなら、息子のために生きたことだって自分のためと言える。何かを創り何かを残したから「生きた」と言えるのかといえば、それもまた、子供を残し家を残したことでも変らない。「生きた証」などという言葉は、それ自体空しく何にもならない。それは、単なる結果でしかない。人に影響を与えたということについても同様で、彼が職場の者たちに残したものは、僅かに通夜の一晩で消えていくし、住民の感謝も語り継がれていくものでもない。それでも確かに公園以後、彼は「生きた」のだと何故思うのか。まさに字の通り一所懸命だったからか。一つにはそれもあるが、本質ではないように思う。ただ一所懸命なだけでは「生きている」という感動を与えないこともあることを僕らは経験的に知っている。「生きる」ということの本質は何なのか。それを問う鍵は、主人公の「私にはもう時間がないのだ」という言葉にあるように思う。つまり、自分が生きている時間への不断の認識なのである。今その時その時への強い自覚である。それを基にして現われてくるものは、総て「生」を感じさせるのではなかろうか。一所懸命という態度が現われようが、悠然という態度が現われようが。また、何か創ろうが、創れまいが、残そうが、残すまいが。それらは総て、結果の一側面でしかないように思う。実際、彼が三文文士と巷の歓楽街を彷徨っている時も、彼は自分の生が残り少ないことを打ちのめされるほどに自覚していたのに、やはり「生きている」とは言えなかった(もっとも、ウォーミング・アップとしては感じられるが・・・)。それは、今への自覚がなく、まもなく来る死の時のほうにばかり捉われていたからである。

 ところで、昔の映画を観る楽しみは、その当時の時代風俗が垣間見えるというところも大きいのだが、芋洗いのようなダンス・ホール、役所の有様は、特に印象深かった。昭和27年である。僅か7年での復興ぶりと以後33年間の本質的な変化のなさが何とも言えないものを感じさせる。それと「鯉のぼり」というあだなが傑作であった。そして、「命、みぢかし、恋せよ、乙女~」の歌については、言うまでもないところである。


 さて、『乱』のほうであるが、この作品の致命的な失敗は、シェイクスピアにある。着想の段階でそれはなかったというが、黒沢が『リア王』を意識した時点で、彼は自分を見失ってしまったようである。戦国末世の混乱を「天からの視点」で描くという立場にしても、道化の存在にこだわってそれが浮いてしまったことにしても、人物が類型的で薄っぺらくなってしまったことにしても、総てはそこからである。

 そもそも戦国時代を舞台にした日本的土壌に道化の存在はそぐわない。ストーリーないしは主題からの必然で狂阿彌が現われたとは、どうしても思えない。必然があるとするならば、シェイクスピアとの相似以外には考えにくい。しかし、日本のドラマにシェイクスピアを見たといった形で海外で評判になったとしたら、それこそイエロー・ジャーナリズムならぬイエロー・アートである。その虞れが多分にあるのに、それでも黒沢がそうしてしまったのは、シェイクスピアを意識した証拠であり、彼が海外での名声によって本来の自分を見失っていることの証明でもある。

 しかし、様式美、壮大さ、迫力といった点では流石である。もっともそれだけに、また金も人も時間も膨大なものをかけていることが判かるだけに、感心し観せられる一方で、その割に内容がこれかと却ってしらけてしまうところがある。本当に城を築き、それを焼いてしまうなんて壮大な馬鹿馬鹿しさに感心はしても、何とも情けない。映画芸術の本質は、そんなところにはない。



推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Theater/5631/toybox/kurosawa2nd/kurosawa2nd5.html#IKIRU
by ヤマ

'85. 7. 8. & 11. 名画座 & 東宝宝塚



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