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『山の音』['54] 『女の中にいる他人』['66] | |||||
監督 成瀬巳喜男
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今回の課題作は、能面のような表の平静さの下に潜む“女性の心底の怖さ”を成瀬巳喜男監督が描き出した二作のカップリングだった。先に観たのは、十六年前の“成瀬巳喜男生誕100年記念 成瀬巳喜男映画祭”で再見して以来となる『山の音』だ。当時の映画日誌に「まるで不義の子を宿した自身を罰するかのようにして、図らずも夫との間に出来てしまった幼い命の芽生えを摘み取る“女の底知れぬ凄みと怖さ”のほうが際立っていた」と記していたが、さすが『怪談』['64]の水木洋子が脚色しただけのことはあると改めて思った。 平凡なる普通人が老年を迎えて思う幸福感は、子供の結婚次第だというような人生観を尾形信吾(山村聡)が口にしていた部分は、水木による脚色か、川端康成の原作にあるのか、ちょっと気になったりしたのは、十六年前と違い、僕が信吾の歳と変わらぬところに来ているからなのだろう。どうも川端康成のイメージではないように感じた。それはともかくとして、七十年近く前の映画のように、息子の嫁の名を呼び切りにして声掛けする感覚など、今の僕は持ち合わせてはいないけれども、自分の子供たちが、修一(上原謙)や房子(中北千枝子)のような難儀を起こさずにいてくれるのは、まったくありがたいことだとしみじみ思った。 それにしても、自転車に乗って颯爽と登場した原節子の演じる菊子の、まさに能面の下に潜んでいた内面とは、いかなるものだったのだろう。「亭主にだけは優しくないね」と悪態をついていた修一の言葉が、彼の絹子(角梨枝子)との浮気によるものからきただけではなさそうに感じられるところが実に印象深かった。修一の零していた「菊子は子供だから…」が暗示していたのは、おそらく夫婦生活への不満で、それは結婚当初から今に続くことだからこそ、そういう表現になるのだろうが、そこがうまくいっていればさして気にも留めないかもしれない妻と父親の親密さが鬱積していての“いじけた悪態”だったような気がする。 信吾にはその自覚があればこそ、不本意ながらも信州への隠居を口にしたりしていたのだろうが、それならば、隠居を言い出す以前から慎むべきものがあったはずなのだ。だが、心惹かれる嫁への想いを抑えられずに“労り”にかこつけて漏らしている有様は、モテ男の息子が“外に女を作る”ルーズさと大差ないどころか、むしろ始末の悪さでは勝っている。信吾自身は、それなりに抑制しているつもりなのだろうが、滲み出てくる形で漏れ出るものの濃縮感は、ますます修一を苛立たせたろうし、甲斐甲斐しく義父の世話を嬉し気にしている妻に対して苦々しい気持ちになったであろうことは想像に難くない、信吾と菊子の風情だったように思う。 公園の両側に並木の連なる眺めに、ビスタと言い、奥行きを深く見せる見通し線だと言っていたラストシーンの先に待つ顛末は、何だったのだろう。菊子の決意のほどを知った信吾は、修一たちが離婚した後、息子に絹子との再婚を促したりすることになるのかもしれないなどと思った。本筋的には、菊子が口にした“ビスタ”は、待ち望まれていた受胎を人知れず独断で始末することによって尾形家を去る決意を固めた菊子の今後の視界が開けたことを示しているのだろうが、嫁が嫁でなくなり、息子が新たな妻を迎えれば、菊子に対する執心を抑制する葛藤に苦しまなくても済むようになる信吾の“希望”を表しているようにも感じられたところが妙味だった。親子でなくなっても手紙の遣り取りを所望していた信吾の“ビスタ”には、何が拡がっていたのだろう。聞くところによれば、エンディングは原作と違えているようだが、僕には、この終わり方にこそ川端康成風味の執着が現われているような気がして、見事な脚色だと思った。さすが水木洋子だという気がする。 続いて、こちらは四半世紀ぶりの再見となった『女の中にいる他人』では、DVD特典にあった予告編を観て驚いた。田代の妻(新珠三千代)が、静養に赴いた夫(小林桂樹)から呼ばれて訪ねて行った温泉地の渓谷で「私が突き落としてあげましょうか」と迫る場面があったのだ。本編には使われていなかった場面だが、重荷に耐えかねて妻に告白した田代が、それでも堪え切れずに杉本(三橋達也)に言ったり、自首を言い出したりする手前から、台本的には設えられていたのかと恐れ入った。 つい最近『パワー・オブ・ザ・ドッグ』を観たばかりなものだから、田代の妻の“犬の力”も相当なものだと感心しきりだった。いくつも怖い顔を見せていた新珠三千代だが、やはりウィスキーの瓶のところでのものが最も怖かったように思う。早々から不穏な空気が流れ始め、緊迫感が持続する演出は流石だったが、さればこそ、改めてジェーン・カンピオンの力技の桁外れのパワーについて思った。 それはともかく、女の中にいる「それでいいのよ、このままでいいのよ」の揺るぎなさが凄く、不行状の果てに殺害された妻さゆり(若林映子)の件について「僕にも責任が…」などと零していた杉本や、良心というよりも小心に駆られて、ぽろぽろ吐き出す田代など太刀打ちできない“パワー・オブ”だと思った。 それで言えば、田代とは二十年来の親友で、「尊敬できる友人は田代だけだ」と言っていた夫の“親友”に科を作って誘惑し、『愛のコリーダ』もどきの首絞め性戯に引き摺り込んでいたさゆりの“犬の力”も、田代の妻に負けず劣らず、かなりのものだったように思う。 合評会では、田代の妻が今後見舞われる罪悪感についての提起があったが、露見しなければ、田代の妻は「仕方のなかったこと」で済ませられそうに僕は思った。彼女は殺したくて殺したわけではなく、夫に対してあれだけ懇願していた“家族と生活を守ること”を一顧だにせず、自分の気の済まなさにだけ囚われている夫に心底憤慨していたであろうから、彼女においては紛れもなく「悪いのは貴男なのよ」なのだろうという気がする。女性のタフさには、そういうところでの思い切りのよさというか吹っ切れ感があって、同じく殺したくて殺したわけではないどころか、田代の妻とは違って殺意もないままに殺害した田代が、起きてしまった事態に対して周章狼狽しているというような、男の有様とは雲泥の差があるように感じられた。 | |||||
by ヤマ '22. 4.21,22. DVD観賞 | |||||
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