『パワー・オブ・ザ・ドッグ』(The Power Of The Dog)
監督・脚本 ジェーン・カンピオン

 十八年前にイン・ザ・カットを観て以来のカンピオン監督作品だった。詩篇を開いて剣と犬の力から、私の魂を解放したまえと独り呟いていたピート(コディ・スミット=マクフィー)のみならず、フィル(ベネディクト・カンバーバッチ)の“パワー・オブ・ザ・ドッグ”も相当なものだったような気がしたが、開幕早々から流れ始めた不穏な気配が、1章、2章、3章と重ねるなか、格別の事態が起こらないまま緩みなくずっと途切れず続くテンションを支えていたカンピオンの演出こそがまさに“パワー・オブ・ザ・ドッグ”そのもののような作品だった気がする。

 張り巡らされた伏線から僕は、母親ローズ(キルスティン・ダンスト)を護るため、四年前に四十一歳のアル中DV親父【墓碑に1880-1921と刻まれていた気がする】を息子が殺害した母子の抱えたトラウマが、まさに同じような“パワー・オブ・ザ・ドッグ”を秘めたフィルとの出会いにより発火して、惨事が繰り返された物語のように受け取った。確か、五十四歳で亡くなっていたブロンコ・ヘンリー【墓碑に1850-1904と刻まれていた気がする】もまた、もしかすると、ピートの犠牲になったフィル同様に、フィルの“パワー・オブ・ザ・ドッグ”の前に命果てたのかもしれないとも思った。バーバンク兄弟が“BH”から牧場を引き継いだのは、1900年だと言っていたような気がするが、五十歳だとすると病床に就くか何かしないと些か若過ぎるように思う。何かが起こっていたのではなかろうか。

 ピートが備えていた心優しさとは裏腹の冷酷なる苛烈さは、彼自身も持て余し懸念していた部分であればこそ、詩篇の一節を開いて読むのだろうし、フィルもまた似たような心的葛藤を経ていればこそ、名門イェール大学を卒業しながら、モンタナの田舎に引っ込んでしまったような気がしてならなかった。山を観て何が見える?と問い掛けたフィルに対して、ピートが“犬”を持ち出したのは、彼のなかに“パワー・オブ・ザ・ドッグ”を感じ取って投じた一石だったように思う。これによりフィルのピートに対する関心は倍加したような気がする。思えば、先にちょっかいを出したのは、フィルだった。食堂を営むローズ母子のささやかなもてなしに対してピートを笑いものにしたのも、彼に対して何か気になるところを無意識のうちに感じ取ったからだったように思う。

 最初の章で、ピートがフィルから嫌がらせを受けたことで泣きはらしていたローズに、やや尋常ならざるものを感じたが、ピートが後に話していた“最期まで酒を飲んでいた父親”との言葉に、彼女の心は、ちょっとしたダメージにも強く反応してしまう脆さを抱えるようになっていたからだったのかと得心した。ローズの涙にほだされるようにして、フィルの弟ジョージ(ジェシー・プレモンス)が彼女と結婚したときに、ダンスの手ほどきをしてジョージから独りじゃないということがこんなにいいものだとは思わなかったと涙され、強い感銘を受けていたローズが、新婚生活のなか程なくして酒浸りに堕ちていったのも、あまりに脆くなっている彼女の心には、フィルの撒き散らす“パワー・オブ・ザ・ドッグ”の与えたダメージが大きすぎたからなのだろう。それは即ち、おそらく唯一人の心許せる相手だった弟をローズに騙し盗られたと思っていたフィルの敵意のパワーの強さでもあったような気がする。

 ジョージの財力で大学進学を果たし、外科医を志していたピートは、久しぶりに会った母親の姿の異変の原因にフィルの存在を感知したに違いない。炭疽菌に倒れた牛の生皮を剥ぎに出掛けた時点で、ピートの内には嘗て父親に対して抱いたであろうものと同種の殺意が宿っていたように思う。なかなか強烈な“パワー・オブ・ザ・ドッグ”だが、ただのシリアルキラーなどでは決してなさそうに造形してあるところに感心した。

 そういう意味では、パワフルに発揮させる抜きん出た者が逸脱してしまうのであって、人は誰しも“パワー・オブ・ザ・ドッグ”を抱えているというような人間観を作り手は備えていたように思う。なかなか怖く哀しい映画だった。絶歌』を読んだときのことを思い出した。




推薦テクスト:「シューテツさんmixi」より
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1982093567&owner_id=425206
by ヤマ

'22. 4.19. あたご劇場



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