『絶歌』を読んで
神戸連続児童殺傷事件 元少年A 著<太田出版>


 もう三十年くらい前になると思うが、フランスで女子学生を殺害して死姦した後、その肉を食べるという事件を起こした日本人男性が帰国後、テレビ番組のコメンテーターとして出演し、論評を加えている姿を観て、どうしてこういうことが罷り通るのだろうと強い違和感を覚えたことがある。作家として紹介されていた彼の著作を僕は読んだこともないが、テレビでの発言を聴いた限りでは、さしたる洞察力も識見も窺えず、むしろ知的センスには乏しいように感じられる人物だったからだ。そのことを思うと、元少年Aが本書を上梓したことに対する風当たりは、件の人物と違って彼の犯行が未成年時のものであったにもかかわらず、比較にならないほど強いように感じる。

 その猟奇性においては肩を並べる両事件における違いは、被害者が外国人の成人であったか日本人の子供であったか、に尽きると思うのだが、その差異のもたらす影響なのか、時代の空気の変化なのか、俄かに判じがたく思うものの、僕には後者の作用しているものが大きいように感じられた。それというのも、この手記を著した元少年Aは、彼とは比較にならない高い知的水準にあり、非常に読み応えのある瞠目すべきものを著しているような気がするからだ。それだけのものを書き遂せていることに圧倒された。もっともさればこそ、これを書かせるに至った十八年の歳月の与えられた彼と、その歳月を奪われ命を奪われた子供との理不尽な差異に、遺族の親御さんの無念と痛切は如何ばかりかとも思わずにいられない。そして、重大犯における更生とは何だろうと改めて考え込んでしまった。

 とにかく神戸連続児童殺傷事件について綴った第一部を読み始めた早々から、とても手記とは思えない修辞に満ちた美文に先ず驚かされた。まるで小説のようだ。おそろしく対象化されている筆致に唸らされた。留置所の独房での自身について僕は痛みに耐えられなかったのかもしれない。「痛みを感じられないことの痛み」に。人間としての不能感に。 人を殺しても何も感じない自分が、怖くてたまらなかった。…自分は世界じゅうから拒絶されている。 本気でそう思った。勤勉な郵便配達人のように花から花へと花粉を届ける健気なモンシロチョウを見ても、アクリル絵の具で塗り潰したようなフラットな青空や、そこに和紙をちぎって貼り付けたような薄く透き通った雲を見ても、そのすべてが僕を蔑んでいるように感じた。美しいものすべてが憎かった。眼に映るすべての美しいものをバラバラに壊してやりたかった。この世にある美しいものは悉く、この醜く汚らわしい自分への当てつけに他ならないと感じていた。 僕は病んでいた。とても深く。「精神病か否か」という次元の問題ではない。“人間の根っこ”が病気だった。(第一部 夜泣き P17~P18)と綴り、留置所の係官に対して彼らは皆おしなべて親切だった。僕には彼らのその親切心が“屈辱”でならなかった。 僕は憎まれたかった。罵倒されたかった。痛めつけられたかった。恐れられたかった。それなのに、いったいこのザマは何なのだ? 他人の善意が煩わしかった。気を使われることさえ不愉快だった。 自分の体調だとかこれから先のことだとか、骨の髄から“どうでもいい”と思っていた。 他人が自分に向ける悪意の量以外に、自分の存在を測る物差しを持っていなかった。 他人に拒絶され、否定されることで、自分の醜さを受容し、肯定することができた。 他人から浴びせられる侮蔑や罵倒によってのみ、自分が浄化されていく気がした。(第一部 生きるよすが P22)とし、同級生たちが芸能人やスポーツ選手になるのを夢見るように、僕は“殺人界のトリックスター”になることを夢見た。僕も彼ら【「世界にその名を轟かせる連続猟奇殺人犯たち」(同 P22)】のように人々から恐れられたかった。怪物と呼ばれたかった。「怪物」と呼ばれ、ひとりでも多くの人に憎まれ、否定され、拒絶されることだけが、僕の望みであり、生きるよすがだった。(同 P23)と当時の心境を記すことのできる表現能力と精神力に驚嘆せずにいられなかった。

 中学生での犯行当時の風景の記憶を言葉にして入角ノ池のほとりには大きな樹があり、樹の根元には女性器のような形をした大きな洞がバックリ空いていた。池の水面に向かって斜めに突き出た幹は先端へいくほど太さを増し、その不自然な形状は男性器を彷彿とさせた。男性器と女性器。アダムとエヴァ。僕は得意のアナグラムで勝手にこの樹を“アエダヴァーム(生命の樹)”と名付け愛でた。 水面にまで伸びたアエダヴァームの太い幹に腰掛け、ポータブルCDプレイヤーでユーミンの「砂の惑星」をエンドレスリピートで聴きながら、当時の“主食”だった赤マルをゆっくりと燻らすのが至福のひとときだった。(第一部 それぞれの儀式 P31)といった形で宿している少年の未熟と早熟の二面性の極端さというものは、ひとりの人格のなかで統合するのはなかなか困難なものだったような気がしてならない。しかも、その二面性は性的な領域だけではなく、社会性や内省に至るまで及んでいたようだ。

 過日観た映画作品怒りにも窺えた英会話講師リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害容疑で指名手配され、二年七か月ものあいだ全国を転々としながら逃げ続けた市橋達也は、その極限状態の逃走生活の中で、「被害者を生き返らせるため」に四国八十八箇所のお遍路巡りを行った。 光市母子殺害事件の犯人である元少年は、母子を殺害後、母親の遺体を「生き返らせるため」に屍姦し、子供の遺体を「ドラえもんに助けてもらうため」に押入れに隠したのだと話した。 世間や被害者の感情を逆撫でするような彼らの不謹慎な言動を、僕は彼らと同じ(人間であることを捨てきれなかった未熟な)一殺人者として、一笑に付すことができない。(第一部 それぞれの儀式 P33)とし、ドストエフスキーを引用しつつ、今でも思うことがある。 もし、もう何年か長く祖母が生きていたら、僕は事件を起こさずに済んだのだろうか。 祖母が生きていても事件を起こしたのであれば、僕が道を踏み外す前に祖母が他界したことはせめてもの救いだった。 僕が何をしようと、祖母は僕を全身全霊を懸け愛してくれたと思う。その愛の深さに、僕のほうが耐えられたはずがない。(第一部 ちぎれた錨 P36)と綴る元少年Aが自己分析する僕は祖母の死や祖母との想い出を“陵辱”することで、祖母を失った悲しみや喪失感を無意識に“快楽”に挿げ替えようとしていたのかもしれない。そうでもしなければ祖母の死を、祖母のいない辛い現実を乗り越えられなかったのだろう。 僕は、自身の精神的筋力ではとうてい持ちこたえることができない重量の悲哀を、この身を裂くほどの強烈な快楽をドーピングすることによって無理やり持ち上げようと試みたのだ。だがその快楽のドラッグはあまりに中毒性が強く、もうそれなしでは生きていけなくなるほど僕の心と身体を蝕んだ。(第一部 原罪 P49~P50)…そう感じるのは、自分の内面をこの建物に投影していただけなのだろうか。たとえば、数人の人が同時に赤い林檎を見たとする。「赤」であるという認識は同じでも、それが「どんな赤」なのかは人それぞれ違う。ある人にとっては「血のような赤」なのかもしれないし、またある人にとっては「赤ん坊のほっぺのような赤」かもしれない。人は目の前に広がる風景を“見る”時、自分の外側にあるものを見ているように感じるが、実はこの眼に映る風景は、自分の内側に拡がっている風景なのかもしれない。(第一部 原罪 P57)といったものは、決して彼が関わった精神科医からの受け売りではない肉声のように感じられた。

 そして、事件後、初めて父親に面と向かって謝ったときのことを「第一部 父の涙」で思えば僕はずいぶん長い間、父親の存在を無視し続けることで、繊細で我慢強い父親の心をつねり上げてきたように思う。 父親と自分の間には何の共通点もないし、ほしいとも思わなかった。僕が好きなものに父親が興味を示さないように、父親が好きなものに僕も興味を示さなかった。 父親を尊敬したことは一度もなかった。真面目なだけが取り柄のつまらない人間だと思っていた。自分がやったことで父親が苦しむかどうかなんて、毛の先ほども考えなかった。 前髪付近にしかなかった父親の白髪は頭髪全体にひろがり、頭頂部のあたりの髪は少し薄くなっていた。 拳を握り、声を押し殺し、肩を震わせ、叱られた子供のようにうなだれて泣いている、余りにも傷付き疲弊した初老の男の姿を目の当たりにして、僕は初めて、自分の存在がどれほどこの人のことを苦しめてきたのかを思い知った。自分がこの人のことを、頭の片隅のさらに隅っこでさえ考えていなかった時、この人はずっと自分に傷付けられ続けていたのだ。今までずっと、自分の無関心によって、この人の心は内出血を起こすほどぎりぎりとつねり上げられていたのだ。 それなのに、「自分の息子だから」と、ただそれだけの理由で、僕を愛さなくてはならないのだと自分自身に言い聞かせるように、僕の写真を肌身離さず持ち歩く、罪なほど生真面目な父親が、悲しかった。(P117~P118)と綴って締めている筆力に恐るべきものを感じた。

 著者の元少年Aは、僕と同じく干支が犬(第一部 咆哮 P147)で、大藪春彦の『野獣死すべし』の一節を引いた“快楽の定義”についてこれほど完璧に書かれたものが他にあるだろうか? 誰もが“聖者”と崇める歴史上の偉人たちも、その実、自らの個人的快楽に飼われていただけではないのか?(第一部 精神狩猟者 P136)という問い掛けには、僕が中学時分に亡父と交わした「偽善とは何か」という抗論での自論に通じるものを覚えたりもした。


 少年院生活を終えてからの五年間を綴った第二部では、決して童顔というわけでもないし、極端に身長が低いわけでもない。なのにどういうわけか歳相応にみられない。たいてい、実年齢よりもかなり下に見られる。相手が気を遣って[若く見えますね]と言っても、言葉どおりに受け取れない。その「若いですね」という響きの中に「異様に稚いですね」というニュアンスが含まれていることを敏感に嗅ぎ取ってしまうからだ。僕にはどこか“不健康な稚さ”がある。僕自身それを自覚している。多分、僕は発達が他の人たちよりアンバランスなのだ。「外見はいちばん外側の中身」だと言ったのは誰だったろう。言い得て妙だ。人間の内面は驚くほど外見に反映される。いくら服装や髪型を変えても誤魔化せないものがある。僕が醸し出すその一種異様な“稚い”雰囲気は、未だこの身体のどこかに眠っているかもしれない、性的なものも含めた自身の“病理”と無関係ではないように思えてしまって、「若いですね」と言われるたび、その潜在的な病理を見透かされ、指摘されているようで、ビクッと身構えてしまう。(P181~P182)という著者が一般社会で出会った人々との関わりが綴られていた。

 それを読むと、廃品回収の二人にしても、事情を知ったうえで身元引受人になってくれたYさんにしても、日本社会がどんどん荒んできているという印象がメディアを通じて蔓延してきているけれども、日本社会もまだまだ捨てたものじゃないという気がしてくる。これは何も著者に限ったことではない普通のことなのだが、僕の極端なところだ。好意を持った相手の発言は、内容にやや不満があってもとりあえず受け容れる。僕は好意を持つ相手にはハチ公並みに従順になる。考えてみれば、僕ほどマインド・コントロールにかかりやすい人間もいないのではないだろうか。反対に嫌いな相手が言うことは、それがたとえどんなに正論でも全否定する。結局のところ、人間は感情の動物なのだ。(P186)と自認する著者にとって、そういう人たちと出会えたことの持つ意味の計り知れない大きさを思わずにいられなかった。

 そして、「最近、君の内省が深まっているように先生は感じる」との精神科医の弁を得て、「淳君のお父さんと、彩花さんのお母さんが、事件のあと」出した手記を読んだのが十七歳の夏だったようだ。保護観察期間が終了し、本退院となったのは二〇〇五年のことで、事件から八年。僕は、他人が自分に着けた“色”をすべて刮ぎ落とし、今度は自分で自分に“色”を着けるために、長い旅に出た。 事件から八年目の、二十三歳の夏だった。(P224)と記している。そこからさまざまな職を転々としながら内省を深めつつ社会と折り合いをつける道を求めて苦闘する姿が綴られていたが、「大阪姉妹刺殺事件」により死刑に処された、ひとつ歳下の山地悠紀夫に寄せてあまりにも完璧に自己完結し、完膚なきまでに世界を峻拒している。他者が入り込む隙など微塵もない。まるで、事件当時の自分を見ているような気がした。 山地は逮捕後、いっさい公開や謝罪の言葉を口にしなかった。そればかりか、「人を殺すのが楽しい」「殺人をしている時はジェットコースターに乗っているようだった」などとのたまっていた。僕には彼が、ひとりでも多くの人に憎まれよう憎まれようと、必死にモンスターを演じているように見えた。誰にも傷つけられないように、自分のまともさや弱さを覆い隠し、過剰に露悪的になっているその姿は、とても痛々しく、憐れに思えた。 現代はコミュニケーション至上主義社会だ。なんでもかんでもコミュニケーション、1にコミュニケーション2にコミュニケーション、3,4がなくて5にコミュニケーション、猫も杓子もコミュニケーション。まさに「コミュニケーション戦争の時代」である。これは大袈裟な話ではなく、今この日本社会でコミュニケーション能力のない人間に生きる権利は認められない。人と繋がることができない人間は“人間”とは見做されない。コミュニケーション能力を持たずに社会に出て行くことは、銃弾が飛び交う戦場に丸裸の素っ裸で放り出されるようなものだ。誰もがこのコミュニケーションの戦場で、自分の生存圏を獲得することに躍起になっている。「障害」や「能力のなさ」など考慮する者はいない。 山地はどこに行ってもゴミのように扱われ、害虫のように駆除され、見世物小屋のフリークスのようにゲラゲラ嗤われてきたのだろう。彼は彼なりに必死に適応しようと努力したのではないだろうか。“魚が陸で生きるため”の努力を。 山地が逮捕時に見せた微笑み。僕には、彼のあの微笑みの意味がわかる気がした。それは言葉で解釈できる次元のものではない。もっと生理的に蝕知する種類のものだ。 あの微笑み……。 あれほど絶望した人間の顔を、僕は見たことがなかった。(P234~P235)と綴っていたのが印象深い。

 目を惹いたのは、ひとりで生きる道を選び、サポートチームの元を去ったあの日、「溶接関係の仕事にだけは絶対に就くまい」と心に決めていた。「少年院で取った資格」の恩恵を受けるのはプライドが許さなかった。それだと自分の力で居場所を作ったことにはならないと思ったからだ。(P247)と記していた“プライド”で、第一部でも彼ら(留置所の係官)のその親切心が“屈辱”でならなかった。(P22)と記していたことを思い出した。

 それにしても日雇い労働を転々としても埒があかない。今のままでは一生この犬小屋発豚小屋行きの負のスパイラルからは抜け出せない。(P247)とのなかで就いた溶接工時代に耽った読書のなかでまとめて読んだという三島由紀夫と村上春樹についての言及は見事だった。生活の基盤を確保すると、僕は読書に熱中した。休みの日は部屋から一歩も出ず日がな一日、本を読み耽った。 取り憑かれたように読書にのめり込んだのは少年院時代以来だった。「少年Aは読書家」というイメージを持つ人もいるが、僕は元来本を読むのが好きなほうではなく、活字よりも漫画や映画といった視覚媒体のほうにより深く親しんでいた。読書の醍醐味を知り、本格的に読書にのめり込むようになったのは、少年院に入った後からだった。(P251)とは思えないくらい、言葉に長け、語彙も豊富だ。

 だから、社長にも認められ少年院に面会に来た時、父親がよくそう言った。「一生懸命」。今の時代、真顔で口にしようものなら物笑いの種になりかねないこのシンプルな言葉が、父親の唯一の美学だった。誠実に、率直に働いて生きてきた父親らしいこの言葉の意味が、実感としてわかった気がした。僕は以前にもまして仕事に打ち込んだ。(P260)なかで居場所も得たのに、ふとしたことで自分の過去を隠したまま「別な人間」として周りの人たちに近付きすぎると、本当の自分をつい忘れてしまうことがある。でもこうやってふとした拍子に、自分は何者で、何をしてきた人間なのかを思い出すと、いきなり崖から突き落とされたような気持ちになる。どんなに頑張っても、必死に努力しても、一度一線を越えてしまった者は、もう決して、二度と、絶対に、他の人たちと同じ地平に立つことはできないのだと思い知る。…扉の向こう側が、本当は自分が居てはならない遠い世界のように思えた。「社会の中で罪を背負って生きていく」ということの真の辛さを、僕は骨身に沁みて感じるようになった。(P274~P277)ことから、三年三か月勤めた会社に辞表を出すに至ったことで、表面的にいくら普通の生活を送っても、一生引き摺り続ける。何より辛いのは、他人の優しさ、温かさに触れても、それを他の人たちと同じように、あるがままに「喜び」や「幸せ」として感受できないことだ。他人の真心が、時に鋭い刃となって全身を斬り苛む。そうなって初めて気が付く。自分がかつて、己の全存在を賭して唾棄したこの世界は、残酷なくらいに、美しかったのだと。一度捨て去った「人間の心」をふたたび取り戻すことが、これほど辛く苦しいとは思わなかった。まっとうに生きようとすればするほど、人間らしくあろうと努力すればするほど、はかりしれない激痛が伴う。かといって、そういったことを何も感じず、人間であることをきれいさっぱり放棄するには、この世界には余りにも優しく、温かく、美しいもので溢れている。もはや痛みを伴ってしか、そういったものに触れられない自分を、激しく呪う。(P282~P283)という彼は、職場として人を交えずに働くことのできる作家の道を模索するようになっている気がした。




参照テクスト:mixi談義編集採録

by ヤマ

'17. 4.26. 太田出版



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