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『夕陽に向って走れ』(Tell Them Willie Boy Is Here)['69] | |||||
監督・脚本 エイブラハム・ポロンスキー
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実話を基にした物語らしいが、誇り高さの厄介さと崇高さを描いて、豊かな含蓄を湛えた映画に昇華していて、大いに感心した。 同年の『明日に向って撃て』と対になるような邦題もなかなかのもので、ロバート・レッドフォードとキャサリン・ロスが出ていること以上に、荒野をひたすら走るウィリー(ロバート・ブレイク)とローラ(キャサリン・ロス)の姿による徒手空拳ぶりとあとでなさ、果てしなさが哀しく印象深い。「ウィリー・ボーイ、ここにあり!と伝えよ」というような誇り高いタイトルも主題をよく表していると思うけれども、沈む日のごとき死に向かってひた走る若者の姿が印象深い映画だったから、邦題も負けていない。居留地監察官エリザベス・アーノルド医師(スーザン・クラーク)の台詞にもあったように思うが、馬で追う保安官たちに対して徒歩で逃げているのに、簡単には捕まらないウィリーたちのタフさが象徴的だ。徒歩に加えて女性連れでの逃走というウィリーの負っていた圧倒的なハンディが、そのまま白人と先住民の間に横たわる格差を示していたような気がする。 そして、カウボーイとしてもガンマンとしても卓抜した技能を持つウィリーと、学校の教師になることを夢見ていたローラという二人のパイユート族の若者が、何ゆえ死ななければならなくなったかを思うと、不条理以外の何物でもない気がした。ローラの父親が行使した度の過ぎた父権にしても、先住民差別を露わにした白人覇権にしても、つまらぬプライドというか面子に囚われているから、本末転倒とも言うべき悲劇を生み出すわけだ。他方、ウィリーが囚われていた誇り高さは、つまらぬプライドではない自尊心ではあったが、自身も周囲も生き難くする頑なさと強かさが、なかなか厄介な代物だったような気がする。 妻として白いドレスに着替えさせたローラを死なせた以上、自分が生き延びるつもりはなかったのであろうウィリーがモロンゴ居留地に逆戻りする途上となる山に向かったのは、逃避行に際して仕掛けた撹乱を易々と見破って追撃隊を率いたクーパー保安官(ロバート・レッドフォード)なら、「先住民同士の諍いなど目にもくれないだろうから程々のところで追って来なくなる」と見ていたウィリーの当初の想定にはなかった執拗さで、必ず山まで追って来ることを見越していたのだろう。 状況を冷静に把握していたチャーリー(ロバート・リプトン)の存在が利いていた。牧童としてウィリーと寝起きを共にして働いていたという彼の語る言葉の真っ当さと追撃隊の面々の思考停止状態の対照も示唆に富んでいたように思う。冷静な真っ当さは、いつだって少数派としたものなのだろう。 パイユート族のウィリーとローラの関係に対置させているようにも感じた、白人のクーパーとエリザベスの関係の対照も効いていたように思う。人が備えるべき誇りの在り様について、いろいろ触発力に富んだ作品だった気がする。四人が四人とも己が矜持と現実との折り合いのつけ難さに葛藤を抱えていたように思う。ローラの涙もエリザベスの涙も、ともに強い印象を残している。『卒業』でも『明日に向って撃て』でも、あまり惹かれなかったキャサリン・ロスが、とても美しかった。 例によって大統領名でいつの時代かを説明するアメリカ映画でもあったが、製作時から六十年遡るタフト大統領の西部視察の護衛のために追撃隊から離れたクーパー保安官がずっと指揮を続けていれば、追手があれほどの痛手を被ることはなかったであろうことを思うにつけ、不条理の度合いが増してくる物語になっているところにも感心した。既に二十世紀に入り、大陸横断鉄道がカリフォルニアにまで延び、都会ではなくても自動車が走っていたりする時代を迎えていた異色の西部劇だった。 【追記】'24. 3.16. ハリー・ロートン 著 『夕陽に向かって走れ』(角川文庫)を読んだ。 2月の合評会課題作として『ジャイアンツ』と併せ観た『夕陽に向って走れ』の原作小説だが、映画化作品とはまるで異なっていて、ウィリーこそ登場すれ、ウィルソン保安官のほかには、映画化作品の登場人物と同名の者は誰ひとり現れず、ウィリーも略奪婚で連れ出したローラならぬロリータを持て余し、「置いてってよ。あたし、とても立てないわ」(P53)という彼女に対して「怒りと熱気にあおられた頭で、彼は考えを整理した。ロリータを置き去りにすることはできない。どうしてもつれてゆかなくては。彼はすでにサイコロを振ったので、勇敢だった昔のパイユート族の習慣に従って、堂々とふるまったのだ。白人は敵である。追跡隊にロリータを渡せば、彼女の運命は彼らの手中に帰し、彼の命と、男の意地にかけたこの行動が、無意味なものになってしまう。彼はロリータに憎悪を覚えた。自分をがんじがらめに縛りつけている女が憎かった。」(P53)となった挙句に、翌日には、「ロリータの死体は、平たい花崗岩の上にうつむけに横たわっていた。背中に銃創がある。…背中からはいった銃弾は、胸部を貫通して、左の乳房から射出していた。」(P68)という形で発見されていた。誇り高さとは無縁の面子にだけ拘って始末していたろくでなしだったわけで、唖然とした。 一九〇九年九月二十六日(日曜)から始まり、十月十六日(土曜)で終える日誌体の本作の主題が、映画化作品から僕が受け取った“誇り高さの厄介さと崇高さ”とはまるで異なるものであって、映画化作品は、原作小説の最後に「しかし彼(ロサンゼルス・レコード紙の新米記者ランドルフ・マジソン)は、あえて書いたのだ。“ウィリー・ボーイは、栄光ある最後の戦いを勇敢に戦った。圧倒的な数の敵を向こうにまわして不敵な戦いをいどみ、もはやのがれるすべのないことを悟るや、敗北の恥辱を味わうよりも自ら己の命を絶つことのほうをえらんだ……”」(P176)との“”書きで記された部分を最大限に潤色して構築した物語だったわけで、まったく恐れ入った。 また、クララ・トゥルーという女性監督官は登場するものの、エリザベス・アーノルド監察官のように医師でもなければ、クーパー保安官と情事を重ねるような振る舞いもまるでなかった。 改めて「実話を基にした物語らしいが、誇り高さの厄介さと崇高さを描いて、豊かな含蓄を湛えた映画に昇華していて、大いに感心した」映画化作品の脚本を担ったエイブラハム・ポロンスキー監督の手腕に感心した。 | |||||
by ヤマ '22. 4.18. BSプレミアム録画 | |||||
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