『さくら』
監督 矢崎仁司

 犬猫映画が僕は苦手なのだが、矢崎作品なら観てみたいと思って臨んだら、犬猫ではなく人間家族を描いた何とも痛切な話だった。矢嶋優子(水谷果穂)からの手紙を美貴(小松菜奈)が隠し詰めていた、赤いランドセルを背に家を出て行っていたときの昭夫(永瀬正敏)の胸中を思うと、何とも言葉がなかった。

 序盤の薫(北村匠海)のナレーションにあった「我が儘に育った」では済まないような、美貴の兄一(吉沢亮)への想いによる仕打ちに唖然としながらも、その自分の物差しでしか振舞わないキャラクターだからこそ、卒業式の場でLGBTをカミングアウトする大友カオル(小林由依)が称えるような無頓着さをも体現していたに違いないことを思い、その人物造形の興味深さに原作小説を読んでみたい気がした。西加奈子は、円卓 こっこ、ひと夏のイマジンを観たときから気になりながら、いまだに一作も読んでいない作家だが、いよいよ読み時が迫ったということなのかもしれない。

 それにしても、人の生には、いつなんどき何が降りかかってくるか知れないと改めて思うとともに、大過なく今を迎えられている我が身の幸いが沁みてきた。'78年に出会った二人の「当時はまだ珍しかった、でき婚」(薫談)によって、'79年に長男の一が生まれ、翌年に次男の薫を得たのち、'84年に美貴が生まれていた長谷川家は、ちょうど次男が美貴の生まれた年に生まれている我が家と家族構成が同じで、犬を飼っていることを除けば、よく似たようなところがあったものだから、余計にそう感じたのだろう。

 この家族構成であれば、末娘が薫の語るような育ち方になる面は、少々自戒していても免れがたいものであることを僕は経験的に知っているし、その娘が次兄ではなく長兄を敬愛することにも馴染みがある。幸いというべきか長男は、本作の一ほどに卓抜した存在ではなかったから、矢島優子からの色とりどりの綺麗な封筒に入った手紙が続々と舞い込むというようなこともなければ、おそらくは美貴が最も屈託を抱えたであろう、優子の頑なさと強張りを解きほぐす妬ましいまでの変化を彼女にもたらすような関わりを見せつけられることもなかったので、僕が赤いランドセルを背負って家を出る羽目には至らなかったものの、観ていて心穏やかにはいられない作品だった。

 邪悪ではあっても邪気のない、それゆえに却ってタチが悪いとも言えるような美貴の仕打ちがなければ、一の人生は違っていただろうと思わずにいられないとき、されば、事故に遭うことも、その後のことも起こらなかったのではないのかという想いに最も強く囚われたのは、葬儀の場で失禁し自失してしまっていた美貴と、美貴に薫が語るような性格を育んだ自責に駆られる昭夫だったような気がしてならない。

 さればこそ、昭夫の妻つぼみ(寺島しのぶ)が、二年の空白の後の帰宅した夫に「逃げ出した」と指摘しながらも咎めてはいない様子だったことに感心した。家出はしても家に金は入れていたらしきことが大きかろうが、さすがは、幼い時分の美貴が邪気なく食卓で訊ねた質問に堂々たる回答で応えていただけのことはある女性だった。先ごろ観たばかりのすばらしき世界』の映画日誌に綴った逃げ出すことの意味と効用、功罪はともにあり、簡単に是非を問えるものではないことが描かれ、『すばらしき世界』と同様に、恰も缶コーヒーBOSSのキャッチコピー「このろくでもない、すばらしき世界」さながらの長谷川家の再生が描かれていたような気がする。

 事態であれ質問であれ何事に対しても逃げずに応えるつぼみの強さに対しても、逃げ出すことで最悪を避けようとする昭夫の賢さに対しても、ともに是非を問わない臨み方こそが再生を生み出すということなのだろう。糞は糞としてひり出すほかないわけで、臭いのどうのと言っても始まらないし、そこが閊えると愛犬さくらのように生き物は死にかけるのだから。

 ただ、映友の幾人かが挙げていたような難点は、言われてみれば確かにあって、なかでも犬の性質を「たおやかな」と言ったり、生まれた娘を初めて目にして「美しくて貴い」などと言ったりする、些か“場面から浮いている”セリフに違和感があったという指摘を「原作を引きずっているのかもしれない」と留保したうえで示していた意見には、なるほどと思いつつ、自分がさして気にならなかったことを興味深く感じた。

 セリフの言葉の部分に関しては、主に脚本家の責任となるわけだが、思えば、三十七年前に観たっきりのフェリーニの81/2に出てくる呪文から拝借したと思しきペンネームを使っている書き手であることだし、少々軽そうな気はする。“ASA NISI MASA”という呪文の内に秘められた“アニマ”をきちんと意識したうえで書いていれば、本作はもっと深い脚本になっていたような気がしなくもない。
by ヤマ

'21. 3. 1. あたご劇場



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