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『気狂いピエロ』(Pierrot Le Fou) 『81/2』 | |||||
監督 ジャン・リュック・ゴダール 監督 フェデリコ・フェリーニ | |||||
ゴダールの映画はこれで三作目である。『ウィーク・エンド』『カルメンという名の女』そして本作。ゴダールのどこがいいのか、何が凄いのか、さっぱり解らない。ヌーベル・バーグとしてアンチ・ロマンの名のもとに、従来の映画的枠組みを破って且つ他に影響を及ぼしたという映画史上の意味を除いて、個々の作品について目を向けてみると、どうしても大したことないという気がする。このヌーベル・バーグ最高傑作と言われる本作ですらも作り手の意図が全く完成度の低いものとしてしか伝わってこない。 「映画とは人生だ」というスローガンはいいとしよう。しかし、彼の映画からは、何の人生の真実も浮かび上がってきていない。饒舌さのなかで、ひたすら上滑りしていく観念語や脈絡を持たぬ言葉。詩を意識してか、対語・洒落・暗示などが言葉のうえで企てられているが、ときおり気の利いたフレーズをかいま見せるだけで、大半は彼の個人的嗜好に留まるところの言葉の羅列にすぎない。 映像はかなり美しい。しかし、二時間も惹きつけておけるほどのものではない。結局なにもかも半端であり、才気走ったあざとさに終わっていて本質を掴んでいないから感動を与え得ない。どうも才気でもって捉えた発想の面白さ、斬新さを活かすだけの深みを彼自身が持っていないのだという気がする。その前者の部分だけでもって高い評価を得たのではないか。所詮、彼は評論家タイプであり、創造者たり得ないように思う。なにせダイナミズムがなさすぎる。生命感が希薄である。 もうひとつの『81/2』は、中期以降フェリーニがあまりに個人的・私的趣味に留まっているような、しかもアクの強い形での映画を作っているのが気に入らなくて、初期のものとどうしてそんなに違っていったのかと思っていた僕に一つの答を与えてくれた。彼が現代という状況のなかでは、純粋に創造者であろうとするならば沈黙しかないと考えていたらしいということが判った。沈黙とは即ち、己が内に閉じこもるということである。彼のあまりに個人的な、独善的とも言えるような表現は、彼にすれば沈黙の表現とも言えるわけだ。観る者をむしろ意図的に拒否することによって、己が内に籠もった表現を取っているわけだ。 観る側の者を積極的に拒否することにおいては、彼はゴダール以上である。ゴダールは、人生にしろ、愛にしろ、真実にしろ、普遍的なものを問題にするなかでのプライベートな私臭はない。ところが、フェリーニのほうは、私臭の塊と言って差し支えない。彼が自分の原体験に固執するその有様は、異様なほどの自意識というか自己愛が感じられる。しかし、それがために却ってゴダール作品には感じられない血の通いといったものが感じられ、結果的に観る側の者を拒否する度合いが弱まる。フェリーニをどう受け取るかというのは、結局のところ、その血に馴染めるか拒絶反応を起こすかという、生理的感覚がものをいうような気がする。 それにしても、この作品における冒頭の夢の中のイメージは、その映像とともに実に鮮やかである。ブニュエルの『アンダルシアの犬』を思い出した。 | |||||
by ヤマ '84.10.18. 名画座 | |||||
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