『円卓 こっこ、ひと夏のイマジン
監督 行定勲


 行定監督作品はわりあい好みにしているのだが、前作『つやのよる ある愛に関わった、女たちの物語['12]に唖然としてしまったことや予告編での芦田愛菜に食傷して、観に行く気を失くしていたのだが、友人に是非にと薦められ、最終日に休暇を取って観に行った。人が物事の意味というものを知り、言葉を自分のものにしていく原初的な過程を、こんなふうに活写している作品だとは、全く以て思い掛けなかった。小説では醸し出せない映画ならではの演出や間合いがとても効いていたような気がする。

 少しづつ何かを知り、分かったようなまだ分らぬようななかである種の手応えというか実感を得ていく過程に対して“妙にくすぐったいような懐かしいような感覚”を呼び起こされ、何だかドキドキするような新鮮な映画体験を味わった気がした。それは、小学時分の先生に手を焼かせた幼い頃の僕に、多分に「こっこ」こと琴子(芦田愛菜)のような率直なところがあったからなのかもしれない。

 そして、原作者の西加奈子のみならず映画の作り手たちにも相通じるところがあったから、このような作品が出来上がったのではないかという気がした。意味も言葉も、確かに食べ物のように吸収して得られる“生きる糧”なのだと改めて思う。僕もよく言葉をメモったし、石太(平幹二朗)のように辞書を引くのが好きだった。そして、何故を考え、どうしてを知りたい欲求の強い子供で、異議申し立てを殊更に好んだ覚えがある。

 それにしても、ぽっさん(伊藤秀優)のキャラが良かった。背中の黒いランドセルの「寿」の文字どおり、寿老人のように頭のいい子だった。そして、親からも否定的に見られていた吃音のある彼のことを「こっこが本気で「かっこいい」と言い続けてくれるから、自分でも「かっこいい」と思えるようになったんだ」と言ったり、琴子が危機に見舞われたときに不在だったことを涙して詫びる心根が、実にかっこよかった。

 二人して早起きをして拵えた休み明けのジャポニカノートのちぎりメモの山をほどき読んで、不登校になりかけていた幹成海(内田彩花)が次第に笑顔になり、二階の教室の窓から紙吹雪のようにして撒く場面が素敵だった。

 意味とか言葉というものが実にないがしろにされていると感じることが、とりわけ強くなってきた昨今、なんだか心洗われるような気分になった。言葉に、みんな“実”がこもっているのだ。空気を読んだり、決まり文句で発している言葉ではないから、人の心を動かすのだろう。とりわけ、ぽっさんが琴子と出会ってなければ、また琴子の側に、ぽっさんがいなければ、と思うだに、人との出会いの巡り会わせに恵まれるか否かこそが人生を左右する一大事なのだと思う。ぽっさんをかっこよくしたのは、彼自身が言うように、間違いなく、琴子だ。男というのは、小さい時分からそういうものだ。

 そして、ジャポニカノートの1ページ目に琴子の記していた言葉が「こどく」だったところに感心した。人が自分自身の力で伸び始める起点は、この「こどく」の察知にこそあるとかねてより思っているからだ。自分がどこか人と馴染めなかったり違和感を覚えるようになり始めたとき、幹成海のように自分の殻に閉じこもり始めるか、石太の教えのとおり、知りたいと思って“イマジン”を働かせるようになるかの違いは、その後の人生において決定的なくらいに違いが大きいような気がする。ぽっさんも嘗ておそらく、成海は今まさに、そして琴子もまた、その危機に見舞われていたように誰にも訪れることなのだ。そのときにどんな人達との出会いのなかで育ち、どのように向かうことができるかで人生が決まってくるようなところがある気がする。多分まだ哲学という言葉は知らない琴子の哲学は、その言葉を知らないままに、ジャポニカノートに「こどく」と書き記した日から始まっているはずだ。

 僕のなかで強く残っている思い出の一つに、小学校6年生のとき、卒業記念に学習塾の先生から色紙に書いてほしい言葉を選べと言われ、リストから選ばずに自分で考えてもいいかと尋ねて「自分の納得する一日を持て」と書いてもらったのだが、そのときに「自分の」というところがいい、「納得」なのがいい、「一日」というのがいいとベタ褒めされたせいで自分でも好きになり、座右の銘にしている言葉がある。先生が逐語的に褒めてくれた一つ一つの意味は、その時点では理解できていなかったと思うのだが、一語一語を取り上げ、これを自分で考えたキミは大いに見所があると褒められたことが印象深くて、その一語一語の意味について考える切っ掛けを与えられたのだったと記憶している。そして、小学生の僕が何気なく発したフレーズに対して、先生がベタ褒めしてくれたことの意味をきちんと理解したうえで、我ながら感心したのはバスケット部を修了して練習に時間が費やされることがなくなり暇になった中学三年生の時分だったような気がする。

 琴子がノートに「こどく」と書いたとき、まだ哲学的な命題としての「孤独」に至っていないのは当然ながら、その日から始まっているのは間違いのないことだと思う。ノートの1ページ目にそう記してあることを映し出し、その後ふたたび成海に届けるメモを記すためにちぎられたノートの1ページ目に残っている「こどく」の文字を映し出した作り手の思いのなかには、そういうものも込められていたに違いない。

 そんな琴子が“ひと夏のイマジン”で得たものは、決して口当たりのいいものばかりではない。それは栄養価の高い食べ物が必ずしも美味しくて口当たりがいいとは限らないのと同じだ。つらい体験や厳しい境遇を栄養にできるか、嘔吐してしまうかの鍵を握っているのは、なぜと問い掛け、知りたいとの思いから働かせる“イマジン”以外にないというのが本作の核心部分だという気がした。人の心であれ、社会の仕組みであれ、知りたいと願う心から働く想像力というものを欠いてしまいがちなのが、知りたいとの思いではなく、教え押し付けたがる心であるのは、当然と言えば当然なのだろう。

 奇妙な姿をした大人の男が自らの顔を“御尊顔”と言い、見知らぬ幼女に踏みつけてくれと求めてくる不可解を知りたいと思ったのか、学校で飼っている兎に自分の顔を踏ませて地面に横たわっていた琴子の心中をイマジンできる大人は殆どいないだろうが、少なくともその奇行を咎められたりはしない環境で琴子は育っていた。

 字引ならぬジビキという名の担任教師(丸山隆平)は「子供の考えていることは、さっぱりわからん。僕も子供だったはずやのに」と言うくらいだから、少なくとも教え押し付けたがる教師ではなく、やはり“イマジン”を大事にしている普通にいい教師だ。琴子と似たようなところのあった僕を許容してくれていた嘗ての学校は、もうなくなっているように思える状況からは、今や“普通にいい教師”以上なのかもしれない。力ある者が想像力を欠いた押し付けがましい言動をやたらと発するようになってきているから、余計にそう思うのかもしれない。

 観終えた後、琴子の口癖を真似て「ええ映画じゃ!ボケ(笑)」と内心で呟いてみた。





推薦テクスト:「映画通信」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1928682726&owner_id=1095496
by ヤマ

'14. 7.11. TOHOシネマズ8



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