『ローマの休日』(Roman Holiday)['53]
監督 ウィリアム・ワイラー

 何度か観ている映画だけれども、このところイングリッド・バーグマンとマリリン・モンローだとか、エリザベス・テイラーを改めて観たりしたなか、先ごろ暗くなるまで待ってを観たものだから、当時よりも十五歳ほど若い新人時代のオードリーを観たくなって、久しぶりの再見をしてしまった。

 生涯忘れられない特別な二十四時間足らずを過ごして自らの選択として帰ってきたアン王女が、側近たちのたしなめに対して義務を分かってなければ、今夜、帰ってくることはなかったと断腸の思いを洩らし、側近たちを退ける際の凛々しさには、オープニングで見せていたような、自分が負わされているものに対する不満など微塵も窺わせておらず、同じ事であっても、自ら負うことと負わされることとの違いが鮮やかだったように思う。

 本作でのオードリー・ヘップバーンは、ローマの街に出たアーニャ・スミスのときの可憐さがもちろん魅力だけれど、アン王女のときの気品と凛とした表情が僕は好きだと改めて思った。『カサブランカ』でのバーグマンの潤んだ瞳に優るとも劣らない本作でのオードリーの潤んだ瞳に痺れた。何度観ても、最後の会見場面は見事なものなのだが、近頃わが国では、それなりのステイタスにある人の会見での言葉があまりに無惨極まりないものだから、より一層その処し方の美しさが鮮やかに映るように感じられた。わが国でも、皇族の会見にはそれなりの品格と知性が窺えるけれども、政界や大学、全国組織の長の物言いや所作の醜態には、観ていて言葉を失うほどのものがある。とりわけ政界の劣化が凄まじい。

 その会見の場で、アメリカ通信社のジョー・ブラッドリー(グレゴリー・ペック)が信頼を裏切ることは決してありませんと明言したことには、アーニャの洩らした本当に私欲のない方ねとの言葉が刺さっていたことが影響を及ぼしているのだろうが、無論それだけではなく、実のところとは違って「私欲がない」と観誤った自分のことを愛し、それに感化されたことによって“アーニャとしての私欲よりも王女としての義務を引き受ける決意”をして、自分への想いを断ち切る選択をしたアンに対して、今度は自分が応えなければ、あいまみえられないとの思いからだろう。「ままならないのが人生さ、違うか?」と彼女に言ったジョーなればこそ、自分も証を立てずにはいられなかったはずだ。

 記者でありながら、この上もない特ダネを放棄することを親友のカメラマンで相棒のアーヴィング(エディ・アルバート)に告げる場面を受けて、会見の場でのジョーの言葉に応える形でアーヴィングが写真を手放す場面がいい。こういうところで、ネガは残っているなどという野暮は言いっこなしとしたものだ。カネよりも、名を売ることよりも、心意気というものが大切だった時代の作品だ。

 いかにも漫画的な黒服たちのいで立ちが滑稽な軽みを醸し出し、その追っ手を逃れた後の満を持した「水も滴る好い“キス”の場面」が大いに目を惹くのだが、西洋でもこの言葉が美男美女の形容に使われたりするのだろうか。

 ネットの映友があらためて観ると、この作品も「戦争の傷」が 随所に描かれていますね。尋ね人の紙を貼り付けた壁なんかが画面に現れると、これも「戦後」の映画なんだな、と実感しますと言っていたが、戦後十年に満たない '53年作品だけあって、記者から王女への質問に「国家間の友情は可能だと思うか」といったものが配されていた。紛争ではなく友情を国家間に求める願いが、人々の心に切実だった時代の作品でもあるわけだ。近隣国との間に敵愾心を煽り立てる好戦的な空気よりも、厭戦気分が人々の間に浸透していた良き時代の映画だとも言えるような気がする。




推薦テクスト:「お楽しみは映画 から」より
http://takatonbinosu.cocolog-nifty.com/blog/2020/12/post-93c980.html
by ヤマ

'21.10. 1. BSプレミアム録画



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