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『キング・オブ・コメディ』(The King Of Comedy)['82] | |||||
監督 マーティン・スコセッシ
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観た年のマイベストテンの外国映画第2位に選出していた作品を三十六年ぶりに再見した。観た当時、アクチュアリティにおいて『タクシードライバー』['76]を上回るように感じていたものだった。 フランスで女子学生を殺害して死姦した後、その肉を食べるという事件を起こした日本人男性が帰国後、テレビ番組のコメンテーターとして出演し、論評を加えている姿を観て、どうしてこういうことが罷り通るのだろうと強い違和感を覚えたのは、本作を観て程ない頃だったように思うが、そのときに本作のことを思い出して改めて感心したような記憶がある。当時の映画日誌に「現代という「時代の狂気」は、それがあり得なくはないところまで来ている」と綴ったことがまさに現出して仰天したものだった。 いま観直すとメディアの問題以上に、「耳目を集めることが最上位」にあると考えているとしか思えない規範性ゼロの輩が、いまの動画サイトへの投稿やら、SNSやブログでの炎上を巻き起こすような時代の潮流を作り出している“匿名やハンドルネームでの執心”のほうに感じる気持ちの悪さを誘発されたような気がする。職業的に追いやられてのものではないだけに、TVメディアが“マスゴミ”と呼ばれる契機を生み出したような気のしている“メディア・スクラム”以上に異様だと感じている。 そういう意味では、名前は大事だと言いながら、一向に正確に名前を覚えてもらえないルパート・パプキン(ロバート・デ・ニーロ)よりも、名を売り目立ちたいわけではないマーシャ(サンドラ・バーンハード)の発揮していたストーカー的執心のほうが強烈に映ってきた。“虚仮の一念”以外の何もかも一切が眼中になく、誘拐して銃まで突き付けて拘束しているくせに、ジェリー・ラングフォード(ジェリー・ルイス)から「拘束を解いてくれ」と言われれば、あっさり解いてしまい、逃げ出されるや、彼を追って下着姿のまま路上に飛び出していくマーシャの“思考ゼロのふるまい”のほうがアクチュアリティを獲得するような時代になってしまい、規範性ゼロのパプキン以上に印象深く映るようになっているのかと恐れ入った。 言うなれば、“狂気の時代”を象徴していたトラヴィスやパプキンよりも、反知性主義を象徴しているようなマーシャのほうが、いまの時代をより体現しているような気がしたのだった。パプキンの話と違ってジェリーから歓迎などされていないと知るや、先んじてそのセカンドハウスを辞そうとするついでに、ちゃっかり卓上の小物を盗んでいくリタ(ダイアン・アボット)との対照性が際立っていたように思う。 映友たちとの話のなかでは、最後のパプキンの成功は劇中にも描かれた彼の空想と同じようなものではないかという観方について、どう思うか問う意見も出た。僕は本作を“個人の狂気以上に時代の狂気を描いた映画”だと観ていて、『タクシードライバー』の変奏作品だと観ているので、トラヴィスが「ほとんど妄想的な独善性によって及んだ凶行が、瓢箪から駒のような称賛を得」たアイリス(ジョディ・フォスター)救出劇をトラヴィスの妄想だと観るのと同じことになってしまう空想説には断じて与しないのだけれども、パプキンの成功を現実部分とは受け取らない観方をする者が、公開当時から少なからずいたような記憶は確かにある。そんな観方をするのかと当時、大いに驚き、呆れたものだ。 そこをパプキンの妄想だと解してしまうと、昨秋再見した『タクシードライバー』の映画日誌にも「“トラヴィス以上に社会のほうがオカシクなっている状況”を活写する作品」と記した部分が飛んで、本作は、何やら訳の分からない映画になってしまうような気がしてならない。単体作品として観れば、いずれの観方もあり得るように思わないでもないけれども、『タクシードライバー』コンビによる作品だとなれば、パプキンによる妄想説はあり得ないように思うし、『ジョーカー』['19]において、笑いを司るテレビ番組のMCマレー・フランクリンの役でロバート・デ・ニーロが登場する形を採って引用されるような作品たり得なくなる気がする。 推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より https://www.facebook.com/groups/826339410798977/posts/3610116675754556 | |||||
by ヤマ '21. 6.11. DVD観賞 | |||||
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