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『キング・オブ・コメディ』(The King Of Comedy)
監督 マーチン・スコシージ


 あんな不自然な物語が奇妙にリアリティを持っているから不思議である。それは、作り手の視点が現代というものを確かに捉えているからこそなのであろう。現代の狂気・現代人の孤独。ストレートに描いている訳ではないのに、それを強く感じさせる。『タクシー・ドライバー』でもそうであったように、ロバート・デ・ニーロ、マーチン・スコシージのコンビは見事である。気の抜けたものか、悪趣味のものにしかお眼に掛かれぬ昨今では珍しく、実にシャープなブラック・ユーモアを含んでいる。

 都市化過程の進んだ現代においては、自分の名前すら正確には認識してもらえないことも珍しいことではないのであるが、そんな中で生きている人間が一端のアイデンティティーを獲得するには、並大抵のことでは叶わない。孤独の中で追いつめられ、狂気を帯びるというのは、程度の差こそあれ、現代人の総てが抱えていることである。狂気を帯びないものは、代りにアパシーを抱く。そのどちらかが大方の現代人の生き延びる道なのである。ピプキンでもなく、ポプキンでもなく、パンプキンでもないパプキンは、前者の人間である。彼が狂気を帯びながら固執しているのが、これまた現代を語る上で絶対に無視できないマス・メディア(その中でもすぐれて現代的なTV)である。マス・メディアのもたらす虚像と実像の乖離。ギャップはそのままに、メディアは個人を圧倒する。そして、各個人の中にその乖離を無自覚の内にプリントしていくのである。何が正常で、何が異常か判からぬ状態は、狂気を助長させる。かような狂気に捉われた者は、通常、精神の破滅に至るのである。ところが、パプキンは、その狂気の末に成功を得るのである。このラストでの意外な成功譚の持つ皮肉は、強烈である 。そして、現代という「時代の狂気」は、それがあり得なくはないところまで来ているのである。

 『タクシー・ドライバー』の中で描かれた現代の狂気には、暴力の影が色濃くさしていた。ところが、パプキンには暴力の影は、ほとんどない。なにせ彼の目指しているのは、コメディアンなのである。彼は終始、粗暴な言動はとらない。そのままにして誘拐という粗暴なことを穏やかに実行するのである。この映画の中に素朴な形での暴力は、ただの一度しか出て来ない。誘拐・監禁から自由を得たスター・コメディアン、ジェリー・ルイスが自分を見張っていた女を平手打ちにするところだけである。映画の中では、怒りの感情すら素直に表現されている場面が出て来ないのである。素朴な形の怒りや暴力がすっかり抑圧され、その底に狂気や質の悪い暴力が浸透している状況というのは、まさに現代そのものである。そういった狂気は、単純な暴力的狂気よりも遥かに恐ろしい。そして、その狂気は、孤独の中から生まれているのである。
by ヤマ

'85. 1.12. 名画座



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