『タクシードライバー』(Taxi Driver)['76]
監督 マーティン・スコセッシ

 学生時分に早稲田松竹で『狼たちの午後』との二本立てで観て以来だから、四十年ぶりの再見となる。当時の日記を開いてみたら、まぁまぁと記してあった。僕の周囲で本作をなんぞのように持て囃し、トラヴィス(ロバート・デ・ニーロ)にコミットする奴らがたくさんいたから、ベトナム戦争に行ったこともなければ、さほど深い鬱屈を抱えているとも思えないボンボン学生の僕らが、軽々にコミットできるようなキャラクターじゃないだろうというような反発があって、冷ややかになった面もあったような気がする。

 改めて観直してみると、小汚いニューヨークの街を映し出していた画面の色合いが、めっぽう美しくて驚いた。記憶にあるのは、もっと薄汚れた感じだったからだ。だが、全国に顔も名前も行き渡る大統領候補などと違って名も無きベトナム帰還兵のトラヴィスが普通の日常生活に戻れないまま、何か価値あることを果たしたいと思いながら空回りした挙句に、ほとんど妄想的な独善性によって及んだ凶行が、瓢箪から駒のような称賛を得るという“トラヴィス以上に社会のほうがオカシクなっている状況”を活写する作品としては、やはり本作よりも、僕は、七年後の同じ監督・主演コンビによるキング・オブ・コメディ['83]のほうが、シニカルで機知に富んでいて好みだ。だが、映画としての評価に断然たる差があるのは、やはり本作が遺作となったとのバーナード・ハーマンによる音楽を演奏していたトム・スコットのサックスにあるようにも思ったりした。

 観賞会を主宰するヒラリン牧師がブログに綴った記事に「狂気へと駆り立てられていったトラヴィス」とあったことへの異議が、観賞後の談義のなかで幾人かから申し立てられたのが興味深かった。行動は過激だったかもしれないが、あれは狂気に駆られてとったものではなく、彼なりの正義の実現だったではないかというものだった。今やテロと言えば殆ど無差別テロと同義に使われてしまいがちだが、本来のテロリズムに対する支持というのもこういうコミットの仕方から起こるのかもしれないと妙な納得感があった。

 僕は、ヒラリン牧師が綴っている“狂気”に異議までは唱えなかったけれど、違和感を覚えるようなところはあって、狂っているとしたら、トラヴィス以上に彼をそこまでの凶行に至らせ、且つ、彼を嫌ったはずのベッツィー(シビル・シェパード)にもう一度振り向かせてしまうほどのヒーローに仕立て上げたように見受けられた社会のほうだという感じが強い。ある種の切実さを伴っているがゆえに、“狂気”で済ませたくはないものを彼は湛えていたように思うのだが、とはいえ、アウトローだったことには間違いない。

 その点で、注目すべきは、トラヴィスがベッツィーを誘って観に行った映画のような気がする。あの時分、ポルノショップで見せていたのは、いわゆるドキュメンタルなセックス・フィルムだったように思うから、普段それを観ていたであろうトラヴィスにすれば、「ああいうシーンが出ては来てもセックス・フィルムじゃなくて映画なのに」という気持ちがあったような気がした。「なんで、この程度で怒るのか?」というような顔をしていたように思う。だが、パゾリーニのソドムの市['75]をポルノ映画という人は少ないとはしても、それを初めてのデートムービーに選ぶのは、やはりバカというか、かなりズレているわけだ。つまり、セックス・フィルムではないからと、あの映画をデートムービーに選ぶ得手勝手と、あの売春窟銃撃を正当な正義行為だと思っている得手勝手を、ほぼ同質のものとして描いていたように思うわけだ。デートムービーではベッツィーに呆れられ、売春窟銃撃ではベッツィーを再び振り向かせたという違いが対照的で、鮮烈なまでに効いていた。そういう意味でも、よくできた作品だと思う。

 そして、デートムービーのエピソードによってトラヴィスのズレ(狂気とは少々違う)を描出していた延長に、売春窟銃撃があるという観方をすると、当夜、一緒に観た方が「狂気」という便利な言葉で批判すると、ことの本質を見失う、と思います。映画の中では、あまりベトナム戦争の思い出などは語られていないけれど、元海兵隊員のトラビスは、「正義」の名のもとに、ベトナム戦争を再現したのだと思います。キーワードは、やはり「ベトナム戦争」だと思います。と語っていたように、まさにベトナム戦争こそは、トラヴィスがデートムービーに良かれと思って選んだ映画のような“アメリカの選択”だったというわけだ。さればこそ、ベトナム戦争を支持できない僕は、やはりトラヴィスの売春窟銃撃を支持したくないと改めて思った。

 観賞後の談義で、もう一つ興味深かったのが、トラヴィスの凶行現場に踏み込んだ警官に対して、今のアメリカの警察なら、あそこで即座に彼を射殺しているに違いないとの声が挙がり、皆が一様に同感だと応じていたことだった。警官に銃を向けるか否かお構いなしに、銃撃者に対しては、誰であれ、ほぼ問答無用に射殺に向かうのが今のアメリカの警察のイメージのようだ。確かに、無抵抗の黒人や非武装抵抗の黒人を呆気なく射殺した白人警官の動画が繰り返し日本のテレビで流されたし、かつて決して発砲しなかった日本の警察官が今は銃撃をタブーとはしなくなっていると思われる行動をとったりしていることが報じられているから、そう思われても仕方がない面もあるのだが、今や実際にそうなっているのだろうか。

by ヤマ

'20.11. 9. あいあいビル2F



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