『夕陽のガンマン』(For A Few Dollars More)['65]
『続・夕陽のガンマン』(The Good, The Bad And The Ugly)['66]
監督 セルジオ・レオーネ

 十五年前に観たマカロニ・ウエスタン800発の銃弾でリスペクトを捧げられていたイーストウッドが出演し、同作の舞台にもなっていたスペインで撮られたマカロニ・ウエスタンの代表的な作品を続けて観た。

 先に観た『夕陽のガンマン』は、二十代の時分に地元の名画座で観ているはずなのに、観賞リストに記録が残っていない作品だ。何と言っても、聖書なんぞを紐解くダグラス・モーティマー大佐を演じたリー・ヴァン・クリーフが、実に渋いて格好いい。そこに変わりはなかったが、「しかし、こんなに髪が薄かったっけ?」などと思ってしまった。

 二十日ほど前にガン・ファイター['61]を観たところだったせいなのか、モーティマー大佐の妹というのは、もしかすると、ストリブリング保安官(ロック・ハドソン)の妹のような浮気妻で、インディオ(ジャン・マリア・ヴォロンテ)が極悪非道のならず者になってしまったのは、彼女の夫だったインディオがあの一件でアウトローの世界に入っていかざるを得なくなったからだったのかもしれないなどと、最後の場面の写真付きのオルゴール時計を観ながら思った。原題と縁もゆかりもない“夕陽”が邦題に付いているのは、原題が“The Last Sunset”だった『ガン・ファイター』の影響だったりすることはよもやないのだろうけれど、その符合に妙味があったように思う。

 それにしても、矢鱈とカッコつけた映画だったのだなと改めて感心した。いささか遣り過ぎのような気がしなくもない。また、二時間を超える尺だったのかと驚いた。

 翌日に観た『続・夕陽のガンマン』は、かねてより気になりながらも観る機会を得ていなかった作品だ。同じようにクリント・イーストウッドとリー・ヴァン・クリーフが銃の腕前で金稼ぎをしているガンマンを演じているが、続編でもなんでもなかった。

 三時間にも及ぶ大長編の幕開けに、原題の「良」がブロンディ(クリント・イーストウッド)、「悪」がエンジェル・アイ(リー・ヴァン・クリーフ)、「醜」がトゥコ(イーライ・ウォラック )に宛がわれ、字幕ではそれぞれ、善玉、悪玉、無頼漢と訳されていたものの、どう観てもエンジェルだけが悪党で、ブロンディが善人とは思えず、トゥコだけが無頼漢とも思えなくて腑に落ちなかったが、最後まで観終えると、厚かましくもお互いに“友”呼ばわりしながらも欲得の利用価値でのみ繋がりつつ、半ば運命共同体的な腐れ縁でもって異様に固く結ばれていた凸凹三人組が迎えた最後の姿を最初に示していたようだと得心した。

 南北戦争による動乱の時代に20万ドルの金貨を追って数奇な旅を続けてきた三人における最後の結果は、確かにブロンディにとっては「良し」だろうし、銃撃によって絶命して墓穴に落ちた挙句に『夕陽のガンマン』よろしく帽子を撃ち飛ばされていたエンジェル・アイにとっては「悪し」だろう。最後に10万ドルの金貨を山分けで得つつもブロンディからこっ酷い仕打ちを受けたトゥコが晒していたのは、確かに「醜態」というか無様な姿だったように思う。

 トゥコがブロンディと組んで己が首に懸かった賞金を繰り返し稼いでいたときに、珍しくも一発目を外した彼を咎めたばっかりに、これまで額が上がっていた賞金の頭打ちを理由にコンビ解消を宣告されたばかりか荒野に置き去りにされた腹いせに、まるで十倍返しのような砂漠での嬲り殺しに近い瀕死の状態までブロンディを追いやったことの仕返しをきっちりと受けていたのが何とも可笑しかった。これだけ離れていても一発目で決めただろうとの狙撃による締め括りが鮮やかで、なかなか見事だった。

 昨夏に観た後年のワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト['68]ほどにスタイリッシュなオープニングではなかったけれども、“著しく寡黙で物々しい、顔と目力に物言わせるレオーネ・スタイル”は、完全に確立されていて圧巻だった。『夕陽のガンマン』でもそうだった「え?なんで?」と吃驚するような展開は相変わらずで、更にパワーアップをしていて、トゥコがブロンディを首吊りにかけようとしていた場面やら後段の窮地における「え?なんじゃ?」の砲弾炸裂など、なんだか南北戦争の時代を背景にしているのも、その砲弾炸裂が欲しかったせいなのかと思わせんばかりの使い方だった。

 エンジェル・アイがちゃっかり北軍の軍曹に収まっていて病弱な指揮官を尻目に部隊で君臨していた展開にも唖然としたが、南軍も北軍も現場を観ない上層部の愚かな指令によって徒に兵を死なせていることに対して、目の前の惨状を観て共感したと思しきブロンディがトゥコを誘い、現場指揮官の北軍大尉が造反する勇気がなくて計画は立てても果たせなかったと零していた“死守命令の出ている橋の爆破”を敢行したりすることにも呆気に取られた。

 だが、こういう作品を観ていると、映画というのは筋立てを映し出す表現ではないということを改めて教えられるような気がする。いかにも濃ゆく暑苦しい顔、顔、顔のズームアップやら、余りに悠然と回っているカメラの時間が醸し出す緊迫感やスケール感に圧倒される。死屍累々の墓場は、ビル・カーソンを名乗ったアイ・パッチの南軍兵士ジャクソンが金貨を隠した墓地だから、南軍のものなのだろうが、長大な橋の爆破といい両軍の戦闘場面といい、本筋とは関係ないところでのこの丹念さは、とんでもない場所での砲弾炸裂が欲しかっただけということを隠すには念が入り過ぎていると恐れ入った。

 リー・ヴァン・クリーフの実に渋い際立ちに関しては『夕陽のガンマン』のほうが優っているように思うけれども、金貨の威光の前には、何もかも芯からチャラにできるトゥコの人物造形の凄さといい、凸凹三人組の距離感の妙味といい、映画としては本作のほうが優っているように感じた。続編にはあまりないことのように思うけれども、続としているのは邦題だけであって、別個の物語だからなのだろう。
by ヤマ

'21. 2.12. BSプレミアム録画
'21. 2.13. BSプレミアム録画



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