『ブーベの恋人』(La Ragazza Di Bube)['63]
監督 ルイジ・コメンチーニ

 本編をまだ観たことがなく、かの有名な映画音楽だけを知っていた時分に、ブーベという名前は女性名だと思い込んでいた僕は、かつての遠い日に観たときに、それがイタリアパルチザンの闘士だったアルトゥーロ(ジョージ・チャキリス)の愛称だったことに驚いた覚えがあるのだが、十代の時分だと思われる当時の印象よりも遥かに、原題の示す“ブーベの女”カステルッチ・マーラ(クラウディア・カルディナーレ)の心の揺らめきが味わい深く映ってきて、思わぬ新鮮さがあった。こういうのは、歳をとっていればこその愉しみだと、なかなかの妙味だった。

 久しぶりのステファノ(マルク・ミシェル)に駅で再会して、1944年7月に始まったと車中で述懐し始めるマーラによって語られる物語は、ブーベが十四年の刑に服して半ばの'50年代初頭、マーラ二十七歳の時点での回想譚だから、二人が出会ったのは、彼女が二十歳前の時分ということになる。マーラが「恋心は伝わってきたが、“好き”の文字はなかった」というイタリア男らしからぬ手紙を寄こしていたブーベは、元パルチザンだけあって筋目を通す律儀な男で、彼以上に恋に熱を挙げていたのはマーラのほうだったような気がするが、劇中に登場する映画哀愁['40]の英軍将校ロイの回想譚に引けを取らないマーラの回想譚だったように思う。ステファノが「きみは強い」と言っていたように、あと七年後の希望を信じている揺るぎなさが印象深かった。

 貴重なシルクの生地をくれ、映画料金が50リラの時分に1200リラもする蛇皮のハイヒールを買ってくれたブーベと、映画と文学を愛好する知的でスマートなステファノ(マルク・ミシェル)の間で心揺れ、「ブーベのことを考えながら、ステファノに癒される私」と独白していたマーラの苦衷がもっともだと思えるような、それぞれの人物造形が気に入った。そして、二十歳くらいの若い身空で酷な板挟みだなと彼女が痛ましかった。

 ブーベが逮捕拘束された面会室での再会場面と法廷での証言場面がとても印象深く、ステファノとマーラの別れの場面が心に残った。マーラが、結局のところ“ブーベの女”を貫く想いを固めたのは、面会室でおそらくは初めて観たであろうブーベの涙もあろうが、それ以上に、国外逃亡を企てる前夜に彼が口にした「婚約する前に戻ったほうがお互いのためだ……君を不幸にしたくない」との言葉をキスで遮って交わした一夜の後朝の別れがあったからなのだろう。ジョージ・チャキリスの表情演技が素晴らしく、面会室でマーラに会ったとき、僅かな時間の間に、彼女が随分としっかりした物言いをするようになっていて、内心「俺の知っているマーラではない」と動揺しているような表情を見せたのが目を惹いた。マーラのその変化には、おそらく知的なステファノによる感化が作用しているのだろうが、ブーベは彼の存在を知らないから、却って漠然とした不安と心許なさに見舞われるわけだ。だから、泣き出したりしてしまったのだろう。

 婚約にしても何にしても、自分で一方的に決めてしまうと、その強引さに惹かれつつも不満だったマーラにおいても、元パルチザンの闘士たるタフさに頼りがいのあった彼だとは思えない弱音を吐いて涙する姿を目の当たりにして「私の知っているブーベじゃないみたい」と驚きつつ、自分が付いていてあげなければ、という気持ちになったのだろう。ジョージ・チャキリスは、名高い『ウエスト・サイド物語』['61]などより、本作のほうが断然いいような気がする。

 ブーベがチェコラ准尉の息子まで殺害してさえいなければ、十四年もの刑が宣告されることはなかったのだろうが、混乱期とはいえ既に戦後期に入っているなかでの抗争事件で巻き添え殺人を犯していれば、その刑期は仕方のない面もあるように感じた。そのなかにあって、マーラの父親が吐き捨てるように言う「冗談じゃない、パルチザンを見下しやがって」との台詞が印象深かった。フランスではレジスタンスが戦後、英雄視されたようだが、イタリアのパルチザンはそうではなかったのかと驚いた。十代で観た時分には、そのようなことに関心が向かわなかったけれども、いま観ると、その両国での違いはどこから来たのだろうと思わずにいられなかった。やはり国の体制自体が全体主義に染まることを国民が支持した国か、傀儡に留まった国かの、国情の違いによるのかもしれないなどと思った。

 そして、奇しくも十四年の刑期が同じだったヤクザと家族の賢治(綾野剛)を、工藤由香(尾野真千子)はマーラと違って、待っていたわけではなかったにもかかわらず、彼が出所後に訪ねてきたことから共に暮らすようになって、母が明るくなったと娘の彩(小宮山莉渚)が喜んでいたものを無惨に打ち砕いてしまうようなものが今の日本には蔓延していることに改めて思いが及んだ。半世紀以上前のイタリアでは、再び強い意志を持つようになったブーベが刑期を終えて出てくるのを待つことに対して、「七年後ならブーベが三十七歳で、私は三十四歳。子供が持てない齢ではない。」とマーラが希望を感じられる世の中だったわけだ。服役を終え、既に除籍通知も出されていたのに、寄って集って排除されていた賢治や由香たちの姿を思うと、日本でも『ブーベの恋人』の撮られた当時なら、マーラのようなヒロインを造形できていたはずなのに、と思わずにいられなかった。そういう社会的寛容が壊れてきてしまっている現在の日本に比して、イタリア社会の今は、果たしてどうなのだろう。
by ヤマ

'21. 2.11. DVD観賞



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