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『飼育』['61] 『夏の妹』['72] | |||||
監督 大島渚
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先に観たのは、未見作の『夏の妹』。無駄に全裸女性の出てくるATG映画らしく、開始早々に桃子(りりィ)の乳房むき出しの入浴場面が出てきたもので、つい最近観た『LOVE』['15]のマーフィーの法則ならぬATGの法則に笑ってしまったのだが、軽妙を装いつつ妙に意味深ぶった、何ともヘンな映画だった。 本作がデビュー作らしい栗田ひろみの、明らかに下手糞の側にあるたどたどしい台詞回しが、珍妙な映画作品のテイストに似合って上手く嵌っている感じと、彼女の演じた菊池素直子(何という名前だ!)と異母兄妹かもしれない鶴男を演じた、後年の石橋正次にはない実に若々しい翳りのない瑞々しさに魅せられた。 菊地浩佑(小松方正)と国吉真幸(佐藤慶)のどちらが鶴男の父親か判らないというなかで、選りによってそれぞれの職業を敢えて、判事=菊地と沖縄県警部長=国吉という設えにしている辺りがいかにも大島らしいあざとさだったが、平然と「若さとは無責任だ」と発して悪怯れない国吉らが、鶴男の父権と養育責任のみならず、大事なことをうやむやにしたままきちんと始末をつけずにエスタブリッシュメントの側に居据わってのうのうとしている世代として登場していたように思う。彼らの無責任は、決して若い時に留まってはいないのだろう。 かといって、過去への悔恨遺恨によって「殺されたい想い」を抱えるヤマトンチュ桜田拓三(殿山泰司)と「殺したい想い」を抱えるウチナンチュ照屋林徳(戸浦六宏)の世代は、割れ鍋に綴じ蓋のような巡り合わせをようやく果たしてみても、それぞれが抱えていたはずの想いとは裏腹の不首尾を遂げてしまうのだから、無責任も抱え込みも、ろくでもないと言うほかないという物語だったように思う。そこに配置されていた“全てを受容する地母神”のような大村ツル(小山明子)とは、何者だったのだろう。資産家であり且つ鶴男の生母にして返還された沖縄にて事も無げに桜田と国吉の再会の席に相伴していた。そのような彼女と、菊池判事の再婚相手として婚約しつつ鶴男を摘まみ喰いしていた若き桃子の掴みどころのなさが、なんとも奇妙な作品だった気がする。 翌日に観た『飼育』は、三十二年前に観て以来の再見。いかなることであっても都合が悪くなれば、すっかりなかったことにしてしまおうとし、水に流すかのように酒で、“清める”のではなく酒盛りにして“固めて”、すんなり手打ちにしてしまえる“日本人のメンタリティの醜怪さ”を実に辛辣に描いていたように思う。少年の眼を配してあるところがポイントなのだが、日本の大人とりわけ男どものろくでもなさというのは、地主の本家(三國連太郎)を筆頭に、百姓番頭(浜村純)ほか村人のみならず、役場の書記(戸浦六宏)も含め、揃いも揃ってという有様だった。 しかも、仕方がないのみあって、悪意はないのだからタチが悪い。それどころか“(家・村の)皆のため”なのだから、犯された者や殺された者、死んだ者は堪ったものではない。折しも、モリ・カケ・さくらを通じて現政権の核なるものが露わになる形で目の当たりに晒されているさなかに本作を再見したことによって、このムラ的メンタリティが、戦後どころか新世紀になっても脈々と継承されていることを痛感させられ、些か遣り切れない思いが湧いた。そして『暁の脱走』['50]で印象深かったヤケクソ気味のツーレロ節が本作にも登場していたことが目を惹いた。 四十三年前に読んだ大江健三郎による原作は、新潮文庫に収められたものが書棚に残っているが、空襲によって東京が燃えているのを遠くに観て疎開者たちが心配しているのを尻目に、常日頃“地方につけを回していい気になっている東京”という心証を抱いていると思しき田舎の少年が、いい気味だと囃し立てるような場面が原作にもあったのか、確かめてみたい気になった。 そこで巻末を「僕は唐突な死、死者の表情、ある時には哀しみのそれ、ある時には微笑み、それらに急速に慣れてきていた、町の大人たちがそれらに慣れているように。黒人兵を焼くために集められた薪で、書記は火葬されるのだろう。僕は昏れのこっている狭く白い空を涙のたまった眼で見あげ弟を捜すために草原をおりて行った。」(P129 新潮文庫)で結んでいた原作小説を半世紀ぶりに読んでみると、映画化作品との共通項は、黒人兵の“飼育”たる設定と少年の視座くらいで、ほぼ別物というべき物語だった。 再読を触発してくれた東京に対する心証の部分に関しては、少し近いとするなら、語り手たる僕に「僕は(麓の)《町》の子供たちを…嫌っていたし軽蔑してもいた」(P91 新潮文庫)との弁があるくらいで、東京など出てこない。映画化作品では主役とも言うべき地主の本家に相当するはずの部落長には一言の台詞もなく、村の衆との関係性も特に描かれず、専ら語り手の「僕」が子供期を過ぎていくイニシエーション的な部分の色濃かった原作からすれば、むしろ『楽園』['19]に描かれていたような「個に向かう衆」の図式や「ムラ社会における閉鎖性と権力構造が助長するもの」といった社会性に向かう潤色を施した田村孟による脚本に、改めて感心させられた。 そして、同じ大島渚による演出であっても『夏の妹』と違って大宝映画の本作には、ATGの法則が観られなかったことが可笑しかった。原作に登場しない精神を病んだと思しき娘を配した本作がATG作品であれば、全裸場面が登場しないはずはないし、これまた原作にはない、兵役忌避に走った青年が純白の洋装の女性と河原で交わる場面や、地主の本家が疎開してきた女性(小山明子)に手を出して泣かせる場面に、一切の裸身が現れないなどということはあり得ない気がする。 | |||||
by ヤマ '20. 4.20. DVD観賞 '20. 4.21. DVD観賞 | |||||
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