『楽園』
監督 瀬々敬久

 些か重苦しくも、内省乏しき今の時代に必要な示唆に富んだ有意の作品だったような気がする。Ⅰ罪、Ⅱ罰、Ⅲ人、と章立てられた物語を観ながら、受け容れがたい苦に晒されると、ただ抱えることに耐えかねて、原因や犯人を捜すことに囚われるのが人の哀しき業であることを改めて思った。小学一年生の愛孫アイカを失った藤木五郎(柄本明)が十二年を経てなお発していた「誰でもいいから、犯人が必要なんだ」という形で囚われる者もいれば、自分のせいだとの自責の念に囚われ続ける同い年の湯川紡(杉咲花)もいる。

 まさに万屋ともいうべく手先は器用だけれども、生きることに不器用な養蜂家の田中善次郎(佐藤浩市)の見舞われた理不尽も、孤独で気弱な青年だった中村豪士(綾野剛)の見舞われた理不尽も、ある意味、同じような“人の哀しい業”が引き起こしたものとして描かれていた気がする。村のオサとしての面子は、善次郎に想いを寄せていた久子(片岡礼子)の父(品川徹)にとっては、それだけ重く掛け替えのないものだったということだろう。

 その際、大きな作用を及ぼすのが「個に向かう衆」の図式であって、村オサが扇動したと思しき善次郎イジメにしても、アイカの父が先導した豪士狩りにしても、追従する者がいなければ、かような惨事には至っていなかったものだ。だが、人の集団においては、得てしてこういうことが実際に起こるように思う。

 それは、田舎に限らぬムラ社会における閉鎖性と権力構造が助長するもので、学校の職員室だったり、格闘技協会の役員会だったり、白い巨塔や政治家、ヤクザの世界だったり、軍隊だったりするのだろう。先導者の責任は途轍もなく重いが、全責任が先導者にあるわけではない。痛んでいるという点で言えば、勢いに乗って調子づく追従者たちと違って、先導者のほうは時に深い傷みを抱えていたりもする。閉鎖的な集団にとりわけ起こりがちなそういった衆愚こそが、人の最も罪深きところであるような気がする。

 本作の最後で、紡が叫んでいた「犯人など判らなくてもいい」という心境になれないと、人に楽園が訪れることはないとなれば、紡が幼馴染の広呂(村上虹郎)から託されても、なかなか困難なことではあるのだけれども、それゆえに楽園などないとするよりも、紡の向っていた方向のほうを僕は支持したいと思うし、作り手の想いもそこにあるように感じた。

 孫娘ではなく紡が生きていることをあられもなく当人に対して咎めていた五郎が、犯人となって死んだ者が現れても、解消されるものは何もなかったと零していたのは、おそらくそういうことだったはずだ。紡を咎めていたときの五郎の表情の醜さは、痴呆になった妻と代わりたいと後に漏らしていた悲痛さでも購えぬほどで、さすがの柄本明だった。

 だが、少なからぬ観客が、結局のところ犯人は誰だったのか或は事故だったかも何ら明らかにせず、善次郎の愛犬レオの由縁のみ明かして、白い車も青い車も見せただけで終わったことに不満を覚えるのだろうと思う。たかだか映画でさえそうなのだ。広呂の言っていた“楽園”を紡がおいそれと作り得ないのは、まさにそれゆえなのだと思わずにいられなかった。そして十三年を経て、紡が「向き合わなくては」と思い直したうえで「判らないまま抱える」ことを向き合った結論としていたことの覚悟の程を思った。作り手の思う壺に嵌ったわけだ。

 善次郎の顛末には、ふとブレッソンのラルジャン['83]のことを思い出した。善次郎が追い込まれていった決定打は、フレデリック・バックの『木を植えた男』さながらに黙々と悼む人['14]のごときルーティーンに携わることでからくも自身を保っていた部分をまさに“根こそぎ”にされたことにあったわけだが、その部分だけ取り上げても凶行の理由とも原因とも言えないように、メディアを含め人々が安易に言及する“原因”として単純に捉えることの出来る事象など、人間の心理や行動において何一つないとしたものだ。そのようななか『悼む人』の静人が抱えていたように、本作の紡が抱える決意をしたように、なかったことにせず忘れず「判らないまま抱える」ことの重さに耐えられる人は、そうそういるものではないのだが、間違いなく存在するのもまた人間なのだと思う。




参照テクスト:瀬々監督のリツイート
by ヤマ

'19.10.31. TOHOシネマズ3


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