美術館 春の定期上映会
“韓国映画界の怪物 キム・ギヨン監督特集~生誕100年記念 異端の天才 金綺泳~

振替スケジュール1日目(7/26)
◎特別プログラム
 『屍の箱』(The Box Of Death)['55]音声トラック欠落の無音上映
 『私はトラックだ』(I'm A Truck)['53]英語字幕
◎特別プログラム
 石坂健治氏講演会(コロナ禍に伴う来高中止によるビデオ講演)
◎Aプログラム
 『下女』(The Housemaid)['60]
 『玄界灘は知っている』(Hyeon-hae-tan Knows)['61]
振替スケジュール2日目(8/1)
◎Bプログラム
 『高麗葬』(Goryeojang)['63]
 『レンの哀歌』(Len’s Sonata)['69]
振替スケジュール3日目(8/2)
◎Dプログラム
 『異魚島』(I-eo Island)['77]
 『水女』(Woman of Water)['79]

 チラシに記されている'98年の上映会も'03年の上映会も観ていて、やりすぎ感が目立つわりに、過激さエグさという点では中途半端というか、さほどに面白いとも思えなくて相性がよくないように感じていたので迷いつつも、'95年に招いたときに「リノ・ブロッカという多面体」をテーマに講演をしてもらった旧知の石坂健治氏の講演があるからということで、朝から赴いた。

 特別上映の2作品は、不完全な形のものだったので、今ひとつピンと来なかったが、石坂氏の講演により、『私はトラックだ』に対して感じていた疑問に納得がいった。チラシの記載では、ニュースを撮った残りのフィルムで構成した実験的作品とのことだったので、1953年当時、どういう場に向けた作品だったのだろうと思ったのだが、スクラップとなった軍用トラックが解体再生されて再び戦場に向かうプロセスをトラックのモノローグで語るなかでの戦意高揚的なプロパガンダがあったらしい。石坂氏の話では、プロパガンダを負いながらも、それを超えたところで表現を試みている点が素晴らしいという作品だから、僕の字幕の読解力ではその前提たるプロパガンダのほうがピンと来ない有様で、なんだろうこれ、という感じになってしまったようだ。チラシに記載のトラックがせめて「軍用トラック」となっていれば随分と違ったはずなのに、と少々恨めしく思った。

 十七年ぶりに再見した『下女』は、影響を受けたというポン・ジュノ監督のパラサイト 半地下の家族から逆読みをすると興味深い点が多々あった。チラシに記されていた「韓国版『市民ケーン』とも称され」には失笑するほかないが、石坂氏がヒッチコックを引いて論評したことがキム監督との親交の契機になったと話していた部分については、ハン・サンギの音楽によるところがかなり大きいと思いつつも、納得感があった。

 下女と言うよりは、家政婦のほうがしっくりくるように思われる本作の登場人物の性格付けが興味深かったのだ。誰についても、悪意よりは執着から来る過ちが惨事を招いていたことに改めて気づいた。『パラサイト』の映画日誌に得も言われぬ哀しみを誘われる映画だった。格差社会を描きながら、富裕者全員をイノセントな存在にしていたことに唸らされたと記した部分の源泉を観たように思う。妙に律儀な堅物さから繊維工場の女性工員からもらったラブレターを彼女の職場の管理部署に差し出したばかりに大惨事に見舞われる憂き目に遭ったピアノ教師の一家を描くなかでの、男の頼りにならない虚弱さと果敢で思い切りのいい女の怖さとの対照が図式的なまでに鮮やかだったように思う。

 女性の怖さという点では、一家を崩壊させた家政婦のみならず、彼女の手当を自腹で足してまで憧れのピアノ教師の家に送り込む女性工員から、家政婦への猜疑心を露わにする歩行障碍を持つ娘に至るまで、実に徹底しており、男の迂闊さについては、家政婦の蜜罠に掛かったピアノ教師のみならず、姉の忠告に頓着せず毒入り水を飲まされたと思って動揺し、よろめいて階段を踏み外して転落死した息子(石坂氏の講演では、後年の名優アン・ソンギだとの話があった)に至るまで、漏れがなかった。そして、この父子の性格付けは、そのまま『パラサイト』のパク家の父子に踏襲されていたような気がする。

 格差社会ということについては、妻が内職のミシン踏みに精出していた本作のピアノ教師は富裕者ではなく、むしろ何とかして生活水準を上げようと無理をしていたわけだから、『パラサイト』のキム一家のほうに近い。格差社会にフォーカスを当てた点ではポン・ジュノの施した意匠がタイムリーで実に見事だったと思うが、人物造形や人間の怖さの描出という点では、確かに本作の与えたインスピレーションが、闖入者ものといった外形的な物語の構造以上に大きいように感じた。

 ピアノ教師の浮気にしても、自身の求めたものではなく抗しきれずに陥った弾みのようなものだが、幼い息子の死も弾みのように見舞われた踏み外しで、男というものは大人も子供も専ら踏み外して人生を誤ってしまうもののようだ。悪意があったとすれば、自身の想いというか執着の対象であるピアノ教師の様子を友人を使う形で探ろうとして結果的に二人ともを死に追いやった女性工員や、ピアノ教師の息子に毒入りの水を飲まされたと思わせた家政婦ということになろうが、両者とも殺意を抱いていたのではなく、姑息な手段を講じてでも探りを入れたいと思った執着や、姉の露骨な嫌疑の表明に対する大人気ない報復ないしは嫌がらせへの執着だったような気がしてならない。

 家政婦にしても、ピアノ教師というよりは、家政婦たる自分のポジションを高めることへの執着が先立っていたように思うし、妻が執着していたのは、彼女自身の台詞にもあったように階段付きの小綺麗な家だった。それらは共に、生存的な欲望というよりは社会的な地位向上を求めてのものだったような気がする。

 惨事や事件は必ずしも悪意によって引き起こされるものではない。それどころか、単純な悪意とは異なるものによって生じるものなのだろうと僕も思う。人生に臨む態度として善きものとされている向上心にも、思わぬ陥穽が待っているというのが人生ということなのだろう。エンディングにおいて転調し、何だか取って付けたような教訓を垂れていたのは、いささか通俗的に“男の頼りにならない虚弱さと果敢で思い切りのいい女の怖さとの対照”を図式的なまでに露わにしていたことへのエクスキューズのようにも感じられたが、「男は年をとるに従って若い女のことばかり考える時間が長くなる」と諫めていた作り手の年齢が当時四十路に入ったばかりだったことを思うと、十七年前に観たときとは違って、既に還暦を過ぎている僕からすれば、少々小癪な気がしなくもなかった。


 身を置く集団のなかで「善きもの当然のこと」とされているものが決してそうとは言えないことを露わにしていた点で圧巻だったのは、続いて観た翌年の作品『玄界灘は知っている』だった。1945年の名古屋大空襲をハイライトに1944年の志願入隊(チラシでは徴兵と記載されているが、作中に志願撤回による除隊申し出が一蹴される遣り取りのエピソードがあった)からの朝鮮人日本兵の軍隊生活を描いた作品だった。韓国映画とは思えないほど、小林正樹や岡本喜八の描いたような帝国陸軍が登場する。そして、朝鮮人差別が描かれ、新兵いじめが描かれる一方で、朝鮮人日本兵をかばう日本兵が幾人も登場するし、古参兵として朝鮮人新兵いじめをおこなっていた森一等兵を追い越して伍長に昇進した朝鮮人日本兵の李家がア・ロウンの脱走に加担することもできた状況が描かれていて驚いた。

 叔父の中村上等兵と同じ大卒インテリの主人公ア・ロウンと恋仲になった日本人女性である秀子が、ア・ロウンにスパイ嫌疑をかけた憲兵に「恥ずべきは、人種ではなく、人格です」と決然と述べ、彼が駐屯地を抜け出て来たのは自分に逢うためだと証言し、それなら、この場で朝鮮人とキスをして見せろと迫られ、毅然と応じたことに対して、「自分もこのような女に出会っていたら、憲兵にはならなかったかもしれない」と零していた場面にも驚いた。今では、日本映画でも韓国映画でも、このような場面は描くことができなくなっているように思わずにいられないことが残念でならない。叔父が連れてきたア・ロウンに初めて会ったときに、秀子が書架にある自分の本を手に取っている彼の姿を観留め、朝鮮人についての差別発言をして、叔父からたしなめられていた場面との対照が利いている。

 そして、大空襲が迫り来るなか脱走兵のア・ロウンを執拗に追い回し、部下による射殺を制してまで己が軍刀で斬殺しようとしていた憲兵の胸中にあったのは、もはや脱走に対する処罰ではなく、差別を乗り越える強い愛で日本女性と結ばれ身籠もらせもした朝鮮人への嫉妬から生まれた憎悪だったように思う。彼の女性にまつわる受傷体験に触れる部分があったような気がしてならなかった。

 また、営倉番を務めていたア・ロウンに対して、米兵捕虜が処刑される前に取った態度についてのア・ロウンの所感が心に残った。憲兵の施した工作によって米兵捕虜が、ア・ロウンは日本人ではないことを知って逃がしてくれるよう頼んだことに対し、秀子との逢瀬に駐屯地を抜け出す伽を務めてくれていた日本人兵士(鈴木という名だったように思う)がたまたま古参兵の森から入手した情報によって営倉入りまでして与えてくれた忠告を得て、ア・ロウンは解錠をしなかったわけだが、処刑前に米兵捕虜が最も憎み、唾まで吐きかけた相手が“日本人でもないのに逃がしてくれなかった朝鮮人”になってしまうことに対して、人とはそうしたものだと、憤りもせず冷静に受け止めていた姿が哀しくも印象深かった。逃がしてくれなかったという自分にとっての目先の事象に囚われて、事態の本旨を見誤りがちな人の常を指していたのだと思う。なかなか大した作品だと思った。

 映画の最後、十把一絡げに大空襲の被災死亡者として掻き集めてきた遺体の山を一刻も早く片付けようと、集まった群衆に箝口令を敷きつつ、遺体確認を求める声を制圧し、焼却して“無かったこと”にしようとしている軍部の姿と、その遺体の群れのなかで意識を取り戻し、衆人環視のもとに炎が迫り来るなかでゾンビのように立ち上がり、秀子のほうに向かってよろめきながら歩き出したア・ロウンの姿を観て、有刺鉄線で囲われた柵を押し倒し始めた民衆を描いたエンディングに強いメッセージを感じた。 

 そして、この小林正樹や岡本喜八を想起させ、国籍の違いよりも東アジアにおける同時代性のほうを強く感じさせてくれた『玄界灘は知っている』を観たことから、迷っていた他のプログラムの未見作も観に行こうという気になった。改めて、石坂氏の話を思い返し、『高麗葬』のBプログラムと『水女』のDプログラムに行くことにした。


振替スケジュール2日目

 両作とも未見作品だったBプログラムは、やはり「はぁ?」が連続の怪作で呆気に取られた。

 先に観た『高麗葬』では、義兄たちを出し抜いてこっそり芋を頬張ったばかりに、とんでもない人生を歩むことになったグリュンの四十年近くに及ぶ“極悪10兄弟や邪悪なムーダン(シャーマン)”【チラシの記載による】との確執物語なのだが、ほとんど治外法権にあるといっていい無法地帯のような寒村なのに、なぜか土地の証文だけは皆が妙に律儀で可笑しかった。キャラクターも各人の行動も物語の展開も、理不尽というか「なんでそうなるの」の連続で、ひたすら悪辣が展開されていったような印象だ。

 結局、ムーダンの告げたとおりに惨事が三十五年余を経て起こったわけだが、占い的中のムーダンも自分のことは占えていなかったというのがミソなのかもしれない。だが、いちばん不可解な存在は、やはりグリョンの母親のように感じられた。それにしても、芋ねぇと苦笑してしまった。食糧難だから、というわけだ。

 次に観た『レンの哀歌』での「女の肉体に霊感を得る先生の眼に私はどう映るのか」と言いながら、失意に沈んでいた憧れの画家シモンの再起と混迷を共にした女教師レンの“哀歌”もまた、設えこそ『高麗葬』と違って遥かに尋常ながら、キャラクターも各人の行動も物語の展開も、理不尽というか「なんでそうなるの」の連続という点では全く同じで、何故かシモンが来ることを察知していたかのように、彷徨うシモンを彼女の教え子が迎えに来てレンの横たわる海岸か河岸と思しき場所に案内する運びに至るラストの場面まで、唖然としっ放しだった。

 リアリティとかナチュラルといったことに背を向けたスタイルの潔さは実に天晴れなのだが、やりすぎ感が蔓延していて、『高麗葬』の早々での蛇に噛まれたグリョンから毒を吸い出す母親がかぶりついた脚から噴出していた血の量と母親の血塗れの口についつい笑ってしまい、その後もその類のツッコミ笑いが続いた。作り手は、そういうところを面白がって映画作りをしている気がしてならない。また、無駄に女の頬を張る場面が登場する『レンの哀歌』には、なんだか増村保造作品に感じた特徴を想起させるところがあって、そう言えば、増村の遺作『この子の七つのお祝いに』['82]を劇場で観ていて思わず吹き出してしまったことを思い出した。その伝で言えば、『高麗葬』のほうは、昨夏に県立美術館が企画上映した“怪奇と恐怖の饗宴(うたげ)『怪奇大作戦』『恐怖劇場アンバランス』特集~円谷プロが描いた50年前の日本~のような作品だった気がする。


振替スケジュール3日目

 二十二年ぶりに再見した『異魚島』は、前日に観た『高麗葬』同様に、胡散臭さ満載のムーダン(祈祷師)が登場するトンデモ話なのだが、「呪われた家系」とのチョン・ナムソクの何者とも知れないハチャメチャなエピソードを上回る、場当たり的な台詞と場面構成に、Bプログラムを観て感じた観る者を唖然とさせて面白がる映画作りとの思いを深めた。廃液による海洋汚染がもたらすアワビ養殖事業の挫折によるナムソクの破産のくだりにしても、「地球が死んでゆく」といった台詞が取って付けたように登場したりはするものの環境問題の取り上げは、むしろ「観る者を唖然とさせて面白がる」といった観点からのネタでしかないように思った。その意味では、そもそも異魚島伝説に向ける眼差しが伝承文化に寄せる関心ではなく、怪異譚としてのネタに過ぎないのと同じ臨み方であることを明示していて、なかなか潔い。全てが一瞬でしかないのは、映画のコマそのものではあるものの、これだけ支離滅裂な場面構成は、容易にできるものではない気もした。これまで観て来た作品と違って本作は、キム・ギヨン自身による脚本ではなく、ハ・ユサンと記されていたが、監督がかなり手を加えているのではないかという気がする。場面的に最もウケたのは、破産の絶望から他の女に身を任せたナムソクに憤慨した妻が「よくやってくれた。犬の食べ残しに手を出す人間はいない」と言って、自らの首を紐で締め上げた場面だった。心置きなく愛想尽かしができるという皮肉的な意味合いで発せられた台詞として今までに聞いてきたなかで、最も強烈な気がした。

 なかでも終盤のハイライト場面たる、海から引き揚げられたナムソクに謎の美女が全裸になって跨る死姦場面の奇抜な珍妙さは、突出していたように思う。映し出されたナムソクの男性器の位置自体の不自然さもさることながら、いくら精子が生きているはずだからといっても尿道口から杭打ちして屹立させて交わったところで射精による精子の採取が得られようはずもなく、リアリティとかナチュラルといったことに背を向けたスタイルの権化とも言うべきものなのだが、臆することなく3年後(だったと思う)に子供を登場させていた。確かにチラシには「生まれた子供は誰の子か?」と記していたように、作中で明らかにされてはいなかったが、それでは何のための「体は死んでも精子は生きている」との医師の説明だったのかとなる。だから、その説明を踏まえるならば、生きている精子の採取方法はハイライト場面のような形ではなくなるわけだが、それでは本作のキム・ギヨン映画としての肝が抜かれてしまうことになる。逆に言えば、キム・ギヨン映画の核心は、そのリアリティとかナチュラルといったことに背を向けたスタイルにあるということなのだろう。チラシに記された解説の末尾に「衝撃のクライマックスを見逃すな!」とあるのは、途中退出を我慢しろとの意だったのかもしれないと気付かされるように、幾人かの中途退出者があったと思しき、ドアの開閉音が上映中に聞こえた。

 続いて観た『水女』は、1979年国際児童年特選映画として製作された作品だとのことだが、『異魚島』における環境問題と同様に、それは「観る者を唖然とさせて面白がる」といった観点からのネタでしかないように思われる映画だった。ベトナム戦争から帰還した傷痍兵がセマウル(故郷改革)運動に取り組み竹細工会社の社長として成功したなかで迎える夫婦関係の破綻と浮気相手の陰謀を描いていた。社長を篭絡した水商売の女が障子に指を挿し込んで小穴を開けながら尻を向け「(奥さんを)どう殺すか教えるから後ろから抱いて」と尻を振るような映画の最後が児童憲章の斉唱になるのは、やはり紛れもなく「観る者を唖然とさせて面白がる」キム・ギヨン作品に他ならないと可笑しかった。しかも本作の社長夫婦は、前日に観た『高麗葬』のグリョンと同じような経緯で結婚をする、共に障碍を負った夫婦なのだが、ソウルの学校で吃音を克服した息子のリードで村人と共に児童憲章を斉唱したことによって重度の吃音症を負った妻の吃音が治り、びっこを引く形でしか歩けなかった社長が飛び跳ねることができるようになっていて、唖然としてしまった。

 思えば、『高麗葬』のグリョンは、義兄たちを出し抜いてこっそり芋を頬張ったばかりに、とんでもない人生を歩むことになったわけだが、本作の社長夫婦もぎこちなさを孕みつつも共に夫婦としての地歩を固めて円満に暮らしていたのに、息子に母親の吃音癖が継がれていることに対して、ソウルの矯正学校に寄宿させるための別れを恨んだ妻が「もうあなたとは一緒に寝ない」と拒んだばかりに、夫が水商売の女の計略に嵌って厄災を被る形になっていた。『下女』におけるピアノ教師夫妻がピアノや小綺麗な家に執着したばかりに、とも重なるように思う。また、夫婦関係が冷え込んだことで妻が得意だった竹細工ができなくなったかのように手が震えていたカットには『レンの哀歌』での画家シモンの手の震えと重なるイメージがあり、『下女』のセルフリメイクを重ねていたというキム・ギヨンの反復というか使い回し癖が窺えたような気がする。

 そして、とっつきにくそうだった傷痍兵の夫が意外に優しくて喜んだ妻が、夫の負っている脚の傷をいたわり温布マッサージをしている場面で、不自然に上半身を上下させる動きの後ろ姿とそのマッサージに夫が陶然としている姿にも「観る者を唖然とさせて面白がる」ために性的ニュアンスを込めた演出意図が明白で、妙に可笑しかった。

 それにしても、社長夫妻を破滅させたところで彼らの事業を雇われ運転手が乗っ取ることなど到底無理で、後継するとなれば、傷痍兵をセマウル運動に導いたと自負していた「女はラジオでなく労働力、上手く喋れないほうが妻には好都合」などと嘯いていた村長が収まるのが順当だとしか思えないのに、運転手夫婦(内縁か?)のそもそもの犯行動機は何だったのだろう、といったことを思うのは、キム・ギヨン作品には御法度なのだろうなと改めて感じた。


公式サイト高知県立美術館



『下女』
推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
https://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/20072701/
by ヤマ

'20. 7.26, 8.2, 8.3. 美術館ホール



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