『エンター・ザ・ボイド』(Enter The Void)['09]
監督・脚本 ギャスパー・ノエ

 僕の少なからぬ映画体験でも一際印象深く残っているカノン['98]以来、気になっているギャスパー・ノエの未見作だった宿題映画を片付けた。

 日本語には、男性器には使わない女性の陰部の呼称に「秘部」というものがあるが、そこはまた「恥部」と称されることもあって、如何にもはしたないのだが、敢えて東京を選び出し、まさしく大都市の秘部であり且つ恥部とも言えそうな街の裏側の生態を延々と映し出しているさまを観ながら、フランス語にもそのようなニュアンスがあるのだろうかと思ってしまった。

 今わの際に勝るトリップ体験はないと語られるなか、さすが薬物常習者と思しき売人オスカー(ナサニエル・ブラウン)は、ラリっていることにタフで、幽体離脱した後なかなか成仏しない。さまざまなトラウマ体験を反芻しつつ、想いを残す妹リンダ(パス・デ・ラ・ウエルタ)に執着しながら魂が彷徨うのだが、「私のなかへ来て」との声に彼女の性器を経てエンター・ザ・「ボイド(“無”と訳されていた)」を果たし、その子宮から輪廻転生することで、ようやく救いを得たという話だったように思う。

 それにしても、もはや枕絵の領域ではないと思われた渓斎英泉の「閨中紀聞 枕文庫」の図版の趣向を思わせる女性器内部に潜り観るような映像や、堕胎した胎児をクローズアップして映し出す場面など、いかにもノエらしい横紙破りの作風だ。先ごろ観たばかりの1917 命をかけた伝令に十年先駆けた“全編ワンカット映像”的な印象を呼び起こすイメージの連続性には、どうやって撮影したのだろうと驚かされた。

 また、変態性において強いシンクロニシティを感じさせるラース・フォン・トリアーに特徴的な端正なまでの映像美とは対照的な、随所においてフォーカスすら失う“猥雑な映像美”への強い意志は、本作のオスカーの友人であり、妹リンダのパートナーとして、輪廻転生したオスカーの父親ともなる人物(シリル・ロイ)の名が作品タイトルになっていた前作アレックス['02]でのラストのトリアー的な映像美を思わせるエンディングを観ているだけに、大いに刺激的だった。

 そして、数々の憂き目に見舞われ、最低の人生だと零していたオスカーに、最終的には救いを与えつつ、またしても、そこに近親相姦のニュアンスを織り込んで、しっかり『カノン』を踏襲していたことが、主題の輪廻転生にもなっていたように思う。相変わらず、ノエは曲者だったと、ほくそ笑んだ。
by ヤマ

'20. 4.13. DVD観賞



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