『カノン』(Seul Contre Tous)
監督 ギャスパー・ノエ


 今世紀最後の年となる今年はラスベガスをやっつけろアシッドハウスと露悪的なまでに不快感や嫌悪感を誘発させる映画ながらも、なかなかに侮れない作品に出会った年だったが、年末に観た『カノン』は、そういう今年の外道映画のなかで真打ちとも言える作品だ。何とも醜悪で、美しさが何処にもないのは二作品と同じだが、二作には何らかの形である種の戯画化が施されているのに、この作品は身も蓋もない直截さで押してくるのだから、その強引な力業には、たじろぐほかない。

 もはや初老とも言うべき元馬肉屋の男が間断なく吐き続ける呪詛のごとき悪口雑言は救い難いほどの醜怪さで、どん底の人格を露呈させているのだが、辟易としながらも、よく観れば、ほとんど総てが内心の声であって、あれだけ喋り続けているにもかかわらず、実際のところは、まるでアキ・カウリスマキの映画のような寡黙さと無表情のなかでドラマが進展している。それゆえに、そこには不気味な怖さが潜んでいるわけだが、かといって彼の人格の荒みが内心の声だけに留まっていないことは、身重の後妻にふるう暴力によっても明らかだ。しかし、外面的には所詮その程度と言えば、その程度にすぎない。だが、凶悪犯罪を犯すといった表面的なところと内心の荒みとは必ずしも一致するものではないのだ。むしろ、表立った行動にあまり出てこない形で、こうして延々と聞くに耐えない呪詛が続くことにこそ、荒みの根の深さを感じる。しかし、この程度に荒んだ人格は、そんなに例外的なのか。あまり認めたくはないものの、人間のこういう救い難さというのは、古今東西、そして未来に渡って、決してなくなりはしないものだという気がするし、僕の内にもその種がないとは言えるものではない。

 それにしても、再会した娘に対して抱いた幻想には、いくらそれまでの呪詛やクラッシュ・ズーム、不規則に発する爆発音などによって撹乱されていたとはいえ、少なからずの映画を観てきた身でも、そのおぞましさに戦慄する部分があったのだから、たいした力ではある。おまけにそうした緊張を一気に解きほぐすかのように、その悪夢が実際のことではなかったと知らされ、すかさず清澄なカノンの調べとともに娘への思いが生きる支えとして綴られると、それがどんなに身勝手でよこしまな愛で、人格の荒んだ父親の救いにはなってもおよそ娘の幸には繋がらないようなことなのに、ふと殺伐とした世界から抜け出したような錯覚をしてしまいそうなところなど、実に油断ならない映画だ。

 つい、善し悪しは別にして、などと安易な言葉を持ち出してしまいそうになるが、別にしちゃいけない悪行を幻想や内心の声に留まらない形で、実際の行動に移し始めたのは、実はこの一見殺伐とした世界から抜け出したような錯覚を与える、この場面からなのだ。そうしてみると、観客に対する「ATTENTION!=デンジャー・サイン」の本当の意味は、実は観る側を戦慄させる幻想の場面よりも、むしろここのところにあるとも言える。それゆえ、人に生じるモラル感覚というのは、こんなに揺れる怪しいものでしかないと挑発しているようにも感じられ、なかなかに痛烈な作品だということになるわけだが、騙されなさんなよと警告しておきながら、騙してみせるぞという意気込みをも示したサインだと観たものの、果たして…。

 前作『カルネ』('91年)を観たのは、六年前。奇妙なテイストを刻み込まれながらも、深い印象を残すには到らなかったが、今回の一筋縄ではいかない映画術には唸らされた。

*参照テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/nikki/nikki00-1224.html
by ヤマ

'00. 12.19. 県民文化ホール・グリーン



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>