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『存在のない子供たち』(Capharnaum) | |||||
監督・脚本・出演 ナディーン・ラバキー | |||||
凄い映画だ。折しもWHO(世界保健機関)が新型コロナ・ウィルスに対してパンデミック宣言をしたところだが、多くの死者を出して世界中に混乱を引き起こし、大騒ぎになっているこのウィルスより遥かにタチの悪い“貧困ウィルス”がパンデミック状態になっていることに思いが及んだ。 日本の無戸籍児の問題に光が当てられたのは、ほんの数年前だったように思うが、当時1万人以上いると推計されていた彼らの事情は、専ら「第1項 妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する。第2項 婚姻の成立の日から二百日を経過した後又は婚姻の解消若しくは取消しの日から三百日以内に生まれた子は、婚姻中に懐胎したものと推定する。」と規定された民法第772条(嫡出推定制度)の問題の部分に焦点が当てられていたような気がする。だが、本作のゼイン(ゼイン・アル=ラフィーア)に通じるケースが、今の日本では少なからずあるように思えて仕方がなかった。“一億総中流”と言われた'70年代の日本に十代を過ごした僕には、今の日本の惨状が情けなくて仕方がないのだが、次世代に対する責任という点では、まさにA級戦犯ともいうべき世代になってしまうことが無念でならない。 チラシに記された「日本からは地理的・心情的に遥か遠い地域」たるレバノンながら、そこで起こっていることが今や心情的には決して遥か遠い地域ではないと感じられ、推定12歳のゼインが、無責任に自分を生んだ罪を問うて両親を裁判に訴えた作品の捉えていたアクチュアリティに恐れ入った。日本の『万引き家族』にしても、韓国の『パラサイト 半地下の家族』にしても、演じていたのは純然たる俳優たちだったが、本作では、裁判を起こしたゼインの担当弁護士を演じたナディーン監督以外は、ほとんどが「演じる役柄によく似た境遇にある素人」だとチラシに記されていた。それゆえか、その迫真性と存在感には只ならないものがあったように思う。 アラブから富裕国に向けてのテロが起こるのは、現今のコロナウィルス感染者が他者に移してやろうと接触することや嘗てエイズに感染したことで多淫を企図した者が現れたこと以上に、封じ込めるのが困難であるように感じられるとともに、それを可能にする道があるとすれば、富の偏在を是正すること以外にないように思った。本作でゼインが訴えていたのは、彼の両親だけではなく、そういうことだったような気がする。 家出したゼインに手を差し伸べたラヒル(ヨルダノス・シフェラウ)の不法就労による逮捕拘束の件についても、今やパンデミック状態が迫ってきている排外主義を目の当たりにするようで何だか堪らないものがあった。オープニングのところで出てきた場面は、これだったのかと得心するとともに、自分には乳飲み子ヨナス(ボルワティフ・トレジャー・バンコレ)がいるとの事情を訴え出ることもままならずゼイン頼みを選ぶしかない彼女が哀れでならなかった。彼女が今回は仕送りができないと涙ながらに母国エチオピアの母に電話する場面とともに…。 そのラヒルから乳飲み子を買い取ろうとしていたアスプロ(アラーア・シュシュニーヤ)については、彼女が必要とする偽造身分証の手配について足元を見て相場より高い値段を吹っかけていた悪役イメージ以上に、行方不明になった彼女が戻ってくるまで何とかヨナスの面倒をみようと、同じような年頃だった『誰も知らない』の明を彷彿させる奮闘をしていたゼインに、助力を与えていた部分のほうが目に留まる人物像が施されていたように思う。むろんゼインが両親を裁判に訴え出たような意味合いまでも考慮してのことではなく、第一にあったのは手数料稼ぎではあろうが、彼は彼なりにラヒル母子のことを真面目に考えて、ヨナスを手放す踏ん切りをつけさせようとしていた気がする。単にヨナスを手に入れて売り飛ばしたいだけなら、ラヒルの姿が見えなくなった時点でのゼインへの対処の仕方がもっと悪辣になったはずだが、そうではなかったからだ。ゼインがどうしようもなくなって結局アスプロにヨナスを渡したときも、この12歳の少年に、ラヒルに言ってあった通りの金額の金を律儀に渡していた。ただし、この間に提供した食料ほかの代金として500ドルから100ドルを差し引いていたが、そこに却って明朗会計ぶりが表れているように感じた。 だが、ヨナスをラヒルから引き離すことが第二のゼインを作らないことになるほど、今のレバノンの苦境と混沌が生易しくないのは、蛇口をひねっても赤茶けた水しか出てこないことに「マジかよ、最低な国だな」と呟いたゼインの台詞を待つまでもないことで、アスプロもまた逮捕拘束に見舞われていた。それが闇組織の首謀者としての当局による逮捕拘束なのか、アスプロもまた闇組織に嵌められていたということなのか、定かではなかったように思うが、アスプロとゼインの関わりに漂っていたものからは、後者によるものと解したいところだ。まさに混沌としたレバノンの状況という意味からもそのほうが、闇が深くなるような気がするし、映画を観終えて劇場を出た屋外掲示板に貼り出してあったプレスシートの監督インタビューに「アラビア語でナフーム村。フランス語では新約聖書のエピソードから転じて、混沌・修羅場の意味合いで使われる。」と添えられていた原題の意味するところにも相応しいように思う。少なくともゼインの両親やアスプロを悪として、それを断罪したり検挙したりで終いをつける類の映画ではないことは明白だ。 そのようななか、本作の最後に用意されていたゼインの笑顔は、何を物語っていたのだろう。『ミッドサマー』のラストでダニーが見せていた笑顔と違って自然と湧き出たものではなく、求められて作った笑顔だったわけだが、素晴らしく魅力的だったことが後を引いた。 | |||||
by ヤマ '20. 3.13. あたご劇場 | |||||
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