『ジュディ 虹の彼方に』(Judy)
監督 ルパート・グールド

 フランシス・ガムというのが本名だった彼女が、フランシスとして生きられた時間は、その四十七年の生涯のうち、いったいどれだけあったのだろうと、その凄絶な晩年と回想を観ながら思った。むろんジュディ・ガーランドの名前は知っているし、ライザ・ミネリの母親だということくらいは知っていたものの、そのほかのプライヴェートは殆ど知らずにいたから、かなり驚いた。

 本作によれば、十代の時分から薬物中毒になるよう虐待されていたわけだが、薬物以上にアルコール依存がもたらしているように見えた乱脈ぶりが、実に痛ましかった。また、本作の描くメイヤーには少女への性的虐待をも示唆するものが込められていたような気がする。MGM社長のルイス・メイヤーその人がというよりは、作中の彼に託された当時のハリウッド業界ということなのだろうが、そのような過酷な少女期を過ごしたことが、五人もの配偶者との結婚と離婚を繰り返す彼女の遍歴に影響を及ぼしていたような気がしてならなかった。

 四十七歳での死去となれば、まだ若年なのだが、レネー・ゼルウィガーの演じる彼女は、実際のジュディがそうだったように消耗し、やつれていて、哀れを誘って少々苦しかった。だが、それでいて調子のいい時のステージ・パフォーマンスにおいては、水を得た魚のように活き活きとし始める。その姿の再現もまた見事で、まったく恐れ入った。

 レネーは、僕のなかでは大竹しのぶに通じるところのある女優で、確かに滅法上手いのだけれど、妙に肌合いの沿わないように感じられる「癖がある」というか、出演作にあまり食指を動かされないのが正直なところだ。だから追ってまで観ないにしても、観る機会があれば観逃すのも惜しくて、観れば必ず唸らされるという女優なのだが、本作では入魂どころか、入神の演技だったように思う。

 それにしても、♪Over The Rainbow♪は、素晴らしい曲だと改めて思った。本作ラストでのレネーの歌唱には万感迫るものがあったが、それにも増して、ジュディの熱烈なファンである追っかけゲイ・カップルの声援歌唱の場面に心打たれた。公演の後、遅くまで自分の退出を屋外で待って声をかけてくれたファンが嬉しくて食事に誘ったものの、開いている店がなくて家に連れていかれ、「クリーム入れちゃってスクランブルエッグにならない」というような代物を美味しいと言って口に運んでいた夜中の食事会の後の演奏に合わせて歌ってくれたジュディの歌唱が、同性愛に生きてきた彼の苦衷に響いてきて、堪らずピアノを中断した出色の場面に呼応していた。万感の思いが押し寄せてきて弾けなくなった彼を背後から抱き包んでくれたジュディに、今度はエールを送り返した彼の歌声が客席に拡がっていく様子が、とても心に沁みた。そして、ロンドンのクラブでの公演でジュディの担当者になって手を焼いていたロザリン(ジェシー・バックリー)の人物造形が気に入った。

 ジュディがその後、半年で亡くなったとクレジットされたときには、劇中でも触れられていた自殺未遂歴からか、ライザとは違ってまだほんの子どもだった娘と息子に父親(ルーファス・シーウェル)のほうを選ばれてしまった喪失感が、彼女から生きる力を奪ったように感じられた。ステージで不始末をまた繰り返して契約を打ち切られ、これが最後とステージに登壇した束の間のショウタイムのなかで♪Over The Rainbow♪の歌詞を歌えなくなったのもそれゆえだったはずで、ひとたびはファンの力によってこれまでと同じく立ち上がらせてもらいながらも、今回はそうはいかなかったわけだ。

 十七歳で『オズの魔法使』['39]の主役の座を得て、これから才能を生かす道を選ぶか、普通の穏やかな生き方を選ぶか迫られ、自身で前者を選び、華やかな世界で名も残したものの、最期に彼女は何を想ったことだろう。少女の時分に、果敢に冷水のなかに自ら飛び込んでいったときには、その三十年後の胸中など知る由もないのが人生の宿命なのだが、もし知り得ていたなら、フランシスは果たして、どちらを選んだのか。是非もないことだけれども、そのようなことを思わずにいられなかった。




推薦テクスト:「一日の王」より
https://blog.goo.ne.jp/taku6100/e/b6f185e0cfec5eb941946c11f2c055af
推薦テクスト:「ケイケイの映画日記」より
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1975093963&owner_id=1095496
by ヤマ

'20. 3. 8. TOHOシネマズ9



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