『ミッドサマー』(Midsommar)
監督 アリ・アスター

 なかなか尖がった作品だ。二十年余り前に観たウィッカーマン['73]を想起した。
 宗教・芸術・哲学といった人間文化における、一般的には影の部分とされる面を白日の下に明るく映し出した果敢さと、アーティスティックな悪趣味センスの鮮烈さが印象深かった。かつてミニシアターブーム全盛の頃にもてはやされたピ-ター・グリーナウェイを彷彿させるところがあるように思うのだが、今般そのような反響は見られず、今更ながらに観客の変容を思わずにいられなかった。

 最後にダニー(フローレンス・ピュー)が初めて見せる解放感に溢れた笑顔の持つ意味については、さまざまな受け止め方のあるところだろうが、僕的には『ウィッカーマン』の拙日誌にも綴ってある「人間とは、それが一つの世界観として受容されれば、いかようにもあれる可塑性に満ちた存在であることに思いを馳せずにはいられない」というところだ。是非はともかく、彼女だけはホルガ村で救いを得たのだろう。

 また、ホルガ村の人々に限らない普遍性を伴った問題として、人間は、何ゆえ何のために、生贄を必要としてしまうのだろうかという想いとともに、おいそれと答の出ない命題に行き当たる作品のように感じられた。

 現代社会とホルガ村にある大きな乖離が印象深く描出されていた一方で、ダニーと同じく“現代社会への不適応症状とも言うべき精神疾患”に見舞われていたと思しき妹が両親を巻き添えにして自死していた場面と生贄九人のうち三人は生きたままという凄惨な巨大木棺とも言うべき建屋の焼却場面の対照性が立ち上ってくるエンディングだったように思う。後者のインパクトにより、前者との対照性が印象付けられ、いわゆる巻き添え自殺から両者ともに“複数の人の命による贖い”とも言えるものが描かれているように感じられたわけだが、前者がダニーを深く傷つけるものであり、後者が現代社会では得られない救済をダニーにもたらしていたことに動揺させられた。

 人は、生き物の命の贖いによらずには存在し得ない罪深き者としてあるわけだが、それが罪ではなく仮に生命界の強者たる者の権利であろうとも、その贖いは放埓に求められるべきものではないのは、摂理としての倫理だと思われる。赦されるべき生贄というのは何なのだろう。僕の常識からすれば、いかなる理由があろうとも人の命を生贄に求めることは許されないとするものだが、現代社会においても、黙認的に「生贄にされている人の命というものがある」ことを知らないとは言えないような現実が存在している。そのことを止むなきものとするならば、ホルガ村のように文化的に人の命による贖いが一つの世界観・生命観として受容されている姿と、どれほどの違いがあるのか。

 また、個人的に求めるものは、ダニーの妹が施していたような祭礼的設えを施していても贖いとは言い難い一方で、ホルガ村での儀式は、ダニーの妹以上の暴虐でありながらも、ある種、異端の文化のように映ってくる部分があるだけでなく、誰も引き出せなかったと思しき救済の笑みをダニーに与えさえもするわけで、人間というのは、改めて難儀な存在というか、罪深い存在であることを思わずにいられなかった。




(追記)
 本編公開中に特別料金でのディレクターズカット版(DC版)が公開されるという椿事が起こったので、珍しくも一か月と置かずに再見してきた。

 拙日誌に妹が両親を巻き添えにして自死していた場面と生贄九人のうち三人は生きたままという凄惨な巨大木棺とも言うべき建屋の焼却場面の対照性」と記していた点については、焼却場面ではなく、墜落死の場面において作り手自ら明示していたことが目を惹いた。「いわゆる巻き添え自殺から両者ともに“複数の人の命による贖い”とも言えるものが描かれているように感じられたという点においては、焼却場面であろうが、墜落死の場面であろうが、同じ趣旨になるわけだ。

 23分長いDC版によって、より明確になった部分はあるが、作品から受ける内容的なものについてはほとんど変わるところがなかった。ただ、最後の焼却儀式の場面の迫力は、DC版のほうが圧倒的だと思う。

 墜落死の場面については、映友から「姥捨て崖」だとか「死の恐怖を克服した自爆テロを連想」という意見をもらった。後者については、転生のような自爆テロに繋がるものを僕も感じているが、前者は少し違うように思った。彼らの世界観では、0~18歳(恰も青春)19~36歳(恰も朱夏)37~54歳(恰も白秋)55~72歳(恰も玄冬)の四季を巡った満願成就として、次代に命と名前を継ぐ栄誉を得た儀式なのだろうと思ったからだ。自然界の何かの虫だったか小動物だったか、生殖を終えた雄が次代の命を育む雌の餌食になる種があったように思うが、それに近いものだった気がする。

 また、クリスチャンのセックス儀式のシーンについて「事前のおばちゃんのヒアリングで、クリスチャンの性癖・好みを聞き出していたんでしょうね。そうでないと、いくら若いクリスチャンが興奮剤入りの飲み物と煙を嗅がされたとしてもあんなに熟女に囲まれてしまっては萎えるはずです(熟女に後ろから腰を押されるというにくい演出がとても良かったです)」といった意表を突かれる見解が伺えて面白かったが、確かに趣味でもなければ、あの状況で成就するのはなかなかの強者だとは思った。

 この件については、ネットの映友女性からも「ヤマさんが若い頃、もし選ばれた男性の立場になったら、あの一夜のお誘いは受けますか?(^^)/」と問われた。「あのときは、クリスチャンの意思的選択というよりも、薬物飲料によって判断力を奪われた状態でしたから、受けるとか受けないではなかった気がします。小屋に辿り着くまでの歩みが不自由そうだったのは、薬物の作用によって股間が異様に突っ張っていたからだろうと思いますよ。」と返したのだが、ボカシを外したDC版で観ると、ペレの妹マヤが脚を拡げて横たわった姿を前に立ったクリスチャンの股間が屹立していなくて、些か画竜点睛を欠く感、否めずだった。

 しかし、儀式を終えて、我に返ったような表情を見せて素っ裸で表に飛び出ていったクリスチャンの股間が破瓜の血に染まっている様子を映し出していて感心した。ルーン文字のことも含めて、なかなか細部に凝った映画作りをしていたことを改めて感じた。その方面にも知見があるようなら、面白さ倍増だったろうと思う。

 また“天と地が逆になる等のカメラアングルの演出効果”についても問われたので、僕的にはカノン(ギャスパー・ノエ監督)でスクリーンに映し出された画面一杯の「ATTENTION!」の文字によるデンジャー・サインに相当するものだと受け止めていると返したら、大いに関心を示してくれた。

 一回目に観たときは、その触発力の刺激に気を取られて、気持ち悪さのほうが追いやられていたけれども、二度目となると、ホルガ村を訪れた若者たちが何か口にするたび、食べ物でも飲み物でも、妙に不穏を感じて気持ちが悪くて仕方なかった。テーブルに載っていたグリーナウェイもどきの上半身丸焼き料理のようなものが模したものなのか、コニーなのかというのは、最初の観賞時から思ったことだったが、揺らめき歪んで見える幻覚もどきの映像に、ギャスパー・ノエの「ATTENTION!」を思ったりもした。
by ヤマ

'20. 2.28. TOHOシネマズ4
'20. 3.19. TOHOシネマズ8



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