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美術館 秋の定期上映会 “アラン・ロブ=グリエ レトロスペクティヴ”
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映画の上映活動に携わっていた二十代の時分から観たかったロブ=グリエの映画を四十年近く経てようやく観ることができた。東京や神戸に出向いてまで観ようと算段したりもしたが、ありがたいことに地元での上映が叶って大いに喜んだ好企画だ。 初日に観た『不滅の女』は、存在と不在の映画だった。存在していても目に映らない存在もあれば、不在でも心から離れない存在があるのは、誰しもに覚えのあることなのだが、かくも視覚的に鮮やかに映し出されると、何だか改めて神秘的なことのような気がしてくる。 アンドレ・ヴァレ(ジャック・ドニオル=ヴァルクローズ?)の部屋のベッドサイドの壁に貼られたシンプルな素描と奇しくも符合するチューリップの花の名ラーレを名乗る謎の女(フランソワーズ・ブリオン)に取り憑かれる男の一人称映画のような作品だったように思う。 マネキンを思わせるような表情の消えた瞬きひとつ動かないラーレの顔の左下方に映っている大きな息遣いを窺わせる身体の揺れが印象深いオープニングカットに続いて、映画の愉しみの大きな要素は、覗き見であることを改めて思い起こさせるイメージが連なり、それだけで何だかワクワクしてきた。 ラーレは「女性は劣った存在で、悪魔的。取り柄はセックスだけ」などと実に挑発的な台詞を発し、アンドレを幻惑するのだが、確かに悪魔的でさえあった。ラーレが行く度か発する「帰らなくては」が印象深く、自動車事故で死亡したときのカットがオープニングカットとまるまる被って息だけしていなかったことが目を惹いた。 続いて観た『ヨーロッパ横断特急』は、前衛的な実験性と言うよりは、かなりふざけた映画で、ある種の緊張感を持続させることが求められる謎めいたスリリングさを分断していた、コンパートメントでの映画制作プランの遣り取りが気に障った。とはいえ、女性を妖しく美しく撮る技は相変わらず御見事で目を惹く。とりわけクラブともキャバレーとも知れない酒場のショーで披露されていたアフリカないしはアラブ系と思しきダンサーの踊りの妖しさと肢体の見事さに観惚れた。 また、後段での娼婦による緊縛ショーと銘打って殆ど全裸とも言うべき肢体に大ぶりの鎖を巻き付けていた女優の局部をわずかに隠していた金属片のように映った覆いの装着はどのようになっているのか気になり、我ながら馬鹿だなと思いつつ、警察からも組織からも追われている最中で身を潜ませていたはずなのに、新聞広告の緊縛ショーに釣られて目論見通り捕まってしまう運び屋(ジャン=ルイ・トランティニャン)の馬鹿さ加減に呆れた。だが、そのあたりのお馬鹿さは、どちらもそう違いはないのかもしれないと苦笑させられた。 一日目のBCプログラムを観逃した二日目はCプログラムからだったので、長年とりわけ熱望していた『快楽の漸進的横滑り』から観始めることとなった。同居人ノラ(オルガ・ジョルジュ=ピコ)ともども、金に困れば売春をして稼いでいたとのアリス(アニセー・アルヴィナ)が同居人殺しの容疑で拘束され、何故か修道院に収監されて取り調べを受けていたのだが、遠い日に何かで読んだ作品イメージからか、ブニュエル&ダリの『アンダルシアの犬』['28]のように物語的な枠組みなどない映画だと思っていたもので、殺人事件の顛末を追う話だとは思い掛けなくて、大いに驚いた。 だが、本作の魅力は勿論そういう物語の描出にあるのではなく、圧倒的なイメージ(画像)の鮮烈さで群を抜く視覚的快楽に他ならない。マグリット的静謐を随所に醸し出していた画面に格調があり、現実感と非現実感の混淆が味わい深かった。物語性ということでは、むしろ音楽に近いような“イメージの反復と変奏”による構成を取っていて、ドラマを綴ろうという意図がほとんど感じられない作品だった。 とりわけアリスを演じたアニセー・アルヴィナの体現していた無垢なる悪魔性が印象深く、オープニングでノラをベッドに括り付けて剥き出しにした乳房に悪戯をしていた際に目についたオルガ・ジョルジュ=ピコの異物感の濃い乳房も、アニセー・アルヴィナの美乳を際立たせるためのものだったように思えるほどに、透明感のある表情と肢体が実に美しかった。おそらくは、この“無垢なる悪魔性”があってのヴァンパイアのイメージだったのだろうし、聖と俗、自由と拘禁、快楽と苦痛といった“対立概念のようでありながら実は隣接関係にある概念の視覚的提示”を試みるというのが、作り手の企図したところだったのではなかろうか。作中の台詞にも出てきた“絶対的自由”とは決して“無秩序”ではないことを、いわゆる公序良俗に抗うような“表現の絶対的自由を求めた作品”において果たそうとしているようにも感じた。 ブレッソンの『やさしい女』['69]を想起させるアニセー・アルヴィナの演技が目を惹き、リンチの『マルホランド・ドライブ』['01]を思わせるキス・シーンともども、現代美術的な遊びとしての裸体スタンプによる壁面文様が鮮烈だった。そして、最後に刑事がぼやいた「最初から全部やり直しだ」との台詞に、ブニュエルの『皆殺しの天使』['62]や『自由の幻想』['74]のラストに通じる機知とともに、落語的なオチを感じて面白かった。物語的には、ノラ殺害容疑の晴れたアリスが負うことになった弁護人(オルガ・ジョルジュ=ピコ:二役)殺害容疑のことを指している台詞なのだが、僕には「(事件物の劇映画として撮るのであれば)最初から全部やり直しだ。(だから、これはそういう類の映画ではないよ)」という作り手からの宣告のように感じられた。それとともに、ロブ=グリエが強くブニュエルを意識していることがありありと伝わってきて、彼の映画の重要な要素が“遊びとおふざけ”で、描いているものはアンチロマンの映画版というようなことであっても、やっていることの主要部はブニュエル的な遊びなのだと感じられて、非常に面白かった。真面目に遊んで、頭を使ってふざけているところがブニュエル作品に通じていて、実に挑発的で愉しい。その意味からも「最初から全部やり直しだ」の台詞は、重要だ。 続いて観た『囚われの美女』は、先に観た『快楽の漸進的横滑り』でも感じさせていたルネ・マグリットがそのまま作中に登場し、それが映画の作品タイトルにもなっていた。余程お気に入りなのだろう。オープニングでバイクに乗っていたサラ(シリエル・クレール)の姿が『あの胸にもういちど』('67)を思わせるとともに『快楽の漸進的横滑り』で素肌にレザーコートをまとっていたノラを偲ばせ、いかなる人物かと思っていたら最後に「絵画の中に存在する絵画」たる“美しき囚人(囚われの美女)”であったことが明かされ、思わずニンマリした。イメージ重視でドラマ性は二の次ということに対して暗黙の了解をしてはいても、これがなければ、流石に安直に過ぎるというか些か安くなってしまう夢オチ的なところを巧みに凌いでいて、大いに感心させられた。 女性上司サラに指示されるまま訳の分からない用務に就いていてとんだ災難に巻き込まれていたヴァルテル(ダニエル・メズギッシュ)が魅せられるマリー・アンジュ・ヴァン・ドレーヌ(ガブリエル・ラズール)に少々蓮っ葉な感じが漂っていてロブ=グリエ作品らしくない気がしたのだけれども、ダンスホールでの最初の出会いの場面の後は、次第に彼女も気品を増していったように思う。映画としてのフェティッシュな洗練度は、むしろアップしているような気がした。 また、本作にもヴァンパイアを思わせるイメージが登場していたのが興味深く、最後にゴヤの『マドリード、1808年5月3日』を彷彿させる絵画が登場したことが、ブニュエルの『自由の幻想』['74]のラストを想起させ、『快楽の漸進的横滑り』でも同じことを感じさせていたことが面白かった。 Bプログラムは、年代的にAプロとCプロの中間に当たる時期の作品だったが、どちらも共にまだ物語性を意識しているように感じられる作品だったから、前もってCプログラムの実に知的でイメージ喚起力に富んだ鮮烈な作品を観ていると、いささか凡庸に映ってきた。 先に上映されたモノクロ作品の『嘘をつく男』は、レジスタンス戦士を称する男がその同志ゆかりの女性たちを次々と漁っていく物語だった。だが、ジャン・ロバンともボリス・ヴァリサとも名乗っていた“嘘をつく男”(ジャン=ルイ・トランティニャン)の名前の由来が最後に明かされ、まさしく嘘つき男以外の何者でもないということになれば、ほぼ彼の戦場語りと女漁りの場面でしか構成されていない本作に描かれたものは何だったのだろうと唖然とした。これを以てアンチ物語と言われてもなぁとの思いが生じて、何だか彼が渉猟したジャン・ロバン(イヴァン・ミストリーク)の妻ローラやその妹シルビア、家政婦のマリアを演じた女優たちを脱がせて濡れ場を演じさせたかっただけではないかとの勘繰りさえ湧いた。三人ともそれぞれ雰囲気の異なる美形だったが、僕的に三人のなかでは、マリアを演じたシルヴィエ・ブレールが好みだ。確か『快楽の漸進的横滑り』の劇中で主題だとも言われていた覚えのある“割られる瓶”が『囚われの美女』と同様に本作にも登場し、始まりはここだったかとの思いも湧いた。 続いて観た『エデン、その後』は、『嘘をつく男』よりも更に物語性から離れ、イメージの喚起力のほうに映画が向かって行っていたが、Cプログラムを観た後では、まだまだ十分に物を語っていて中途半端な感じが拭えず、半ば夢オチのようにして綴られていた女学生ヴィオレット(カトリーヌ・ジュールダン)の夢想に、きちんと夢想としての脈絡がついてしまって収まっているように感じた。事件物を装いつつも事件物として物を語る気など更々なかったことを「(事件物としては)最初から全部やり直しだ」との台詞で終えて宣言していた『快楽の漸進的横滑り』のような確信に至っておらず、ヴィオレットの夢想を借りて紡がれたイメージにしても、マグリット的静謐を随所で醸し出し、味わい深く格調高かったCプロの作品には及ばない“現実感と非現実感の混淆”でしかなかったように思う。そして、着衣の男と全裸の女性によるベッドシーンに当世にはないものを観たような気がして可笑しかった。昨今、脱がされているのは、専ら男優のほうだ。 現実生活に生の実感を得られないでいる学生たちが、カフェ「エデン」に集って気ままに演劇を作ってみたり奇妙なゲームに興じたりしているなかでの一つの台詞「死ぬべきか、演じるべきか、それがジレンマだ」というハムレットをもじった台詞が印象深く、最後にヴィオレットがもう一人の自分として出会った女性に合一したのは、その生のジレンマが解消してエデンに戻ったという意味なのだろうかと思うと、本作が綴っていたイメージの旅だけでそこに至らせるのは少々安直な気がした。本作でも案の定、“割り砕かれる瓶”が登場したが、これについては勿論、OKだ。 公式サイト:ザジフィルム | ||||||||||||||||||||
by ヤマ '19.10.19~20. 美術館ホール | ||||||||||||||||||||
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