『やさしい女』(Une Femme Douce)
監督 ロベール・ブレッソン


 愛情関係において、相手に苦痛を与え、傷つけるだけの激しい嫉妬心が生じる原因には、主に二つの心理が考えられる。過剰な独占欲があり、それが満たされない場合と、相手に対し自分の存在に自信を持ち得ない場合である。この作品の男の場合、後者の部分が大きいであろう。「教養を試された」という思いや「知性が好きだ」という科白に窺える知的コンプレックスに加え、「彼女の肉体を支配しようとした」が、それは「頑なだった」と思う性的コンプレックスが、自分は女を知的にも性的にも満足させられずに、経済的優位でもってのみ繋ぎ留めているに過ぎないという不安を抱かせている。最も惹かれているその二つの面で、男は相手に対して自信が持てないのである。それゆえ、女の知的好奇心が、彼女の若さにふさわしい背伸びのような形で現われていても、それをたしなめる術を持たないし、彼女と男との密会の場を目撃しても、不実はなかったのだと思い込もうとするだけで確かめようとはしない。

 制度としての結婚を重荷だと考え、平凡な夫婦のあり方を飽き足らないと思う、若々しい理想主義から抜けていない女(「初めて店に来たとき、彼女はまだ十六才のようだった」と回想するくせに、男は彼女が十六才であることを考慮したことは一度もなかったようである。しかし、それが無理もないと観客の目に映る。実際に当時十六才だったドミニク・サンダが、素材として優れていたにしても、ブレッソンのその辺りの人物造形の力量は相当のものだと窺える。)が、そんな男と結婚してその生活のなかで、何を考えたのだろうか。ブレッソンは、あくまで男の目に映った女を忠実に再現する。男にとってまさにそうであったように、女は把握し切れぬ不可解さと神秘的な魅力とを観客に観せてくれる。そこには、作者全知的な心理描写は微塵もない。あくまでクールに、その視点を保ち続ける姿は、ストイックだと感じさせるほどで、総ては観客の想像力に委ねられている。しかし、その大胆なほどの潔さにもかかわらず、それが決して独善的な、観客を突き放したスタイルにはなっていない。かくして、我々観客は、作中の男と全く同様に、確信の持てぬままに、ずっと無表情に近く感情を面に出さなかった女の唯一の感情表現とも言える嗚咽の意味や突然の自殺の意味を考えさせられることとなる。それには、ざっと考えてみても三通りほどの観方があるように思う。

 女が男と結婚したのは、多分、陰鬱な家族のいる家から出ることや好きな本もろくに買えない貧しい境遇から抜け出すためというのが第一義だったろう。しかし、結婚当初は彼女も男を愛していたようだし、少なくとも男の回想にもあるように愛そうとはしていたのである。だが、男の自分への愛情が信頼のない激しい嫉妬の形でしか向かってこないことに傷つき、かといって男の許を離れていく当てもないままに、ささやかな抵抗とともに男を拒絶していく。そうしたなかでの、男からの懺悔とやり直そうとの懇願、そして、あの目撃された密会の夜に不実はなかったと信じているという、男から示された初めての信頼。ここで女は嗚咽するのである。

 そこで先ず考えられるのが、初めて示された信頼に対する喜びと頑なになっていた自分を詫びる涙、次に、どんなに拒んでみても執着を捨てず、自分を全く理解してくれないで無理な要求をされることへの苦痛と怒りの涙、そして、三つ目は、実際は犯していた不実への悔恨と男の信頼への驚きの涙である。その延長上にある自殺はまた、それぞれ、所詮は実生活上ではうまくやっていける余地のない者同士の、氷解という一瞬のいい時を汚すためだけに暮すことを拒んだ清算とも言えるし、また、男との関係への絶望と与えられた苦痛の復讐としての自殺、或は、自己否定と贖罪としての自殺ということになる。この三通りの観方は、それまでの文脈からは、そのどれもが在り得ることながら、事実としては並立し得ないものである。観客としても何れとも判じ難い。そのように描きながら、焦点がぼやけているとか表現力が拙いとは決して感じさせない。曖昧で不明瞭というのではない。難解だというのでもない。明確で不可解なのである。これは、表現としては、稀有のものである。

 一般に、単純な映画は、一つのシーンが一つの意味しか持たず、奥行のある作品というのは、一つのシーンにいくつもの意味が重層化されている。その重層化された意味は一体として厚みになるのであって、この作品のように、一体化し得ない意味をそのどれをも無理なく想像させ、それでいて作品としての曖昧さを感じさせないというのは驚くべきことである。殆どの作品は、それがいかに重層的な表現に成功していても、作者全知の立場を取っていて、明確で明解である。そして、それは心理描写の的確さとか人間観察の深さとして評価されるところである。しかし、実人生において人が体験するのは、そのような明確で明解な人間像ではなく、この作品において男の目を通じて観客に映った女の像のように、幾通りかに読める判じ難さを伴った人間像である。そういう意味では、作者全知的な立場にある作品というのは、実人生とは違った虚飾の下に成り立っているとも言える。ブレッソンは、そういった虚飾を徹底して嫌ったのである。そのために出演者から演技のみならず表情までも奪っている。そうすることによって、人間の実人生と同じ立場にある作品を求め、成功したのである。加えて、終幕 近く、女が自殺する前に鏡に向かって幽かに微笑んだ、その僅かな表情でドミニク・サンダを深く印象づけるとともに、人間にとっての表情のもつ豊かさの意味合いというものも忘れ難いものとしたのである。ブレッソンの作品に接したのは初めてなのだが、一歩間違えば、陳腐で卑俗な男と女の物語になる素材をこれだけシャープに、しかもドストエフスキーのあの陰鬱さをも見事に映像化した力量は只者ではないという気がした。
by ヤマ

'87. 4.16. 名画座



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