『50年後のボクたちは』(Tschick)
監督 ファティ・アキン

 1日しかなかった上映日に折り合わず観逃していたファティ・アキン作品がオフシアターベストテン上映会の再映作品となって、幸運にも観られる機会を得た。

 高速道路から早く出るよう騒いでいたマイク(トリスタン・ゲーベル)とチック(アナンド・バトビレグ)を観ながら、そう言えば、僕が免許を取得する前に、最初に走った公道は、中央フリーウェイだったなぁなどと遠い日のことを思い出した。

 流石にチックとマイクほどの無軌道ではないけれども、僕にも数々のとても褒められたものではない行状があって、なかには高校時分に、屯して酒盛りなどをしていた一人住まいでの騒ぎを通報されて、親元に警察から電話が入って今は亡き親父に弁明しなければならなくなったこともある。だが、当時そうやってつるんでいた連中のうち、約50年後の今や名士になっている者はいても犯罪者になった者は、僕の知る限り一人もいない。50年後の再会を約していたチックとマイクとイザ(メルセデス・ミュラー)もまた、50年後の犯罪者にはきっとなっていない気がする。それは、おそらく当時の僕らがそうだったように、少し軌道から外れることを楽しんでいるだけで、悪行による利得の獲得を目的にはついぞしていなくて、ある意味、うまく立ち回って利己的な欲望を満たすことにはむしろ禁欲的ですらあったからであり、且つそれを見越してか否か、窮地で接する大人たちが寛容であったからであることを改めて思い返させてくれるような作品だった。

 二人が腹を空かせて立ち寄った田舎家で振る舞われた美味なる手料理にしても、あれだけの事件を起こしていても復学できている社会的猶予にしても、昨今では、とても望めないものなのかもしれないけれども、若者の成長においては、実に得難く掛け替えのないものになることは、経験的に僕も知っている。社会が寛容を失っていくことが、そこに生きる人々をいかに損ない、育ちの芽を摘むことに繋がるのかを思わずにいられなかった。作り手が本作を撮りあげた背景には、この“不寛容”が、キーワードとしてあるに違いないと思った。

 トルコ系ドイツ人であるファティ・アキンには、30代にして世界三大映画祭全てでの受賞歴を誇る成功を果たしているが、そこにまで至った背景に、ドイツ社会の持っていた寛容によって育まれた自身のキャリアに対する想いがあるようだ。そして、その“移民への寛容”が急速に失われて行っているドイツに対する危機感がこの作品を生み出したような気がしてならなかった。マイクに加えてロシア系のチックを温かく迎えていた子沢山の女性に“母なるドイツ”のイメージを重ねていたに違いなく、そのうえで彼女に、全国展開資本のスーパーではなく地元資本の事業者を意識的に選択するようなライフスタイルを採らせていたことが目を惹いた。その心とは即ち、グローバリズムの名の下の巨大資本による強欲資本主義という他ないマーケット至上主義に対する異議申し立てだ。

 これまで『愛より強く』['04]、そして、私たちは愛に帰る['07]、ソウル・キッチン['09]、女は二度決断する['17]と観てきているが、これほど語り口の優しく微笑ましい後味の良さが残る作品には覚えがなく、いささか驚いた。32年前に観たきりで心許ない記憶ながら、旧友の死亡記事を目にして車中でクリス(リバー・フェニックス)たちと過ごした少年時代の夏の日々を回顧していた男(リチャード・ドレイファス)の姿が心に残っている『スタンド・バイ・ミー』(監督 ロブ・ライナー)を想起させる作品だったように思う。

 それにしても、ドイツでは、2016年時点でカセットテーブのカーオーディオを搭載した四輪駆動マニュアル車が普通に走っているのだろうか。リチャード・クレイダーマンのデビュー曲♪渚のアデリーヌ♪['77]にしても、『スターシップトゥルーパーズ』['97]にしても、四駆マニュアル車にしても、とても今どきの14歳の趣味嗜好とは思えないのだが、それこそがチック&マイクの人とは違う“風変わりの面目”としたものだったのかもしれない。




推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
https://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/19070702/
by ヤマ

'19. 7. 6. 美術館ホール



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>