『女は二度決断する』(Aus Dem Nights)
監督 ファティ・アキン

 ドイツの裁判事情は知らないけれど、原告被告両者が弁護人を立てていたから民事裁判のようだが、判決内容は刑事裁判のそれで、何だか違和感が拭えなかった。民事刑事のいずれにしても、かような事案において被害者遺族の証言だけが決定的な鍵を握るような立証によって判決に臨むとは信じがたく、被告となった若きメラー夫妻の足取りを警察が押さえていないとは考えられない。あまりに杜撰な捜査だということになる。

 それはともかく、法治主義を担保する社会的装置としての裁判制度なるものの困難さを改めて思わずにいられなかった。こういう映画を観ると、選挙という制度にこそ問題があるように思えてくると拙日誌に記したスーパー・チューズデー ~正義を売った日~で言及したように、民主主義を担保するものとして敷かれている普通選挙制度という社会的装置が決してうまく作用しているとは思えないのと同様、裁判制度にも大きな限界があるように感じる。

 被害者シェケルジ夫妻のことも被告となったメラー家のことも直接は知らない法廷で、ヌーリ・シェケルジ(ヌーマン・アチャル)の薬物売買による服役歴や妻カティヤ(ダイアン・クルーガー)の薬物使用歴をどう見て、メラー夫妻の極右団体在籍歴や爆薬製造能力をどう見て、現実に起こった爆破事件に臨むかには、かなり厳密な捜査による証拠固めが必要なのに、メラー家の親子関係もよく判らない状況での父親の証言と被害者遺族の目撃証言で判決を下すのは無謀極まりない気がする。そういう意味では、本作における判決それ自体は至極真っ当なのだが、映画では爆弾ケースを積んだ自転車を置いて行った犯人がネオナチのドイツ人女性メラーであることを明示していたから、観客に判決を不当なものだと受け取らせる作りになっていたように思う。そのためなのかもしれないが、息子夫婦を告発したメラー家の父親を実直そうに描き、被告側の弁護士とギリシャ極右団体に属する弁護側証人をいかにも悪役仕立てにもしていた。本作は、あくまでカティヤ目線で事件を描いた作品だということだ。思い返してみると、客観カメラに拠る場面は一切なかったような気がする。

 だが、そっくりそのままの状況設定で場合によっては、被告遺族と父親の思い込みから、たまたま親の意に沿わぬ団体に所属していたことで冤罪に問われかけていた被告を救った名弁護士と勇気ある外国人支援者の話にもできる形になっていたように思う。そのような構成によって法廷劇を描き出していることをどう解しようか些か戸惑ったが、いずれにしても現行の裁判制度に問題と限界があることを示していることに変わりはない。

 他方、カティヤがメラー夫妻を犯人だと断ずるのも無理ない状況であることについては、何ら異論はない。事件を知らされたばかりの時点で、彼女が真っ先に「犯人はネオナチよ」と断じることに違和感の生じない現実というものがある。それほどに、世界各地で「極右」と評される団体の暴力的な排除指向には、かつて革命・解放の名の下に暴力指向を強めた「極左」と同じく、愚劣で目に余るものがあるように思う。それによって彼女の“決断”を支持するか否かは別問題なのだが、旧知の間柄らしく信頼している弁護士ダニーロ(デニス・モシット)の要請にもかかわらず、上告には委ねられなかった絶望の深さをダイアン・クルーガーがいかんなく表していて、この顛末も是非無いことだと思わずにいられなかった。本作は、まさしく捜査当局の不手際によってカティヤが自爆テロリストに追い込まれる物語になっていたわけだが、あくまでカティヤ目線を貫く本作では、既に警察も裁判も眼中になくなっている状態に観る側も引き込まれてしまうことになる。そういう意味では、少々危ない作品でもある。

 捜査当局の不手際や裁判制度の限界が被害者遺族をテロリストに仕立て上げることになってはいけないからこそ、重大事件の捜査というものは精緻を尽くさねばならないのだと改めて思った。また、本作に陪審員は登場しなかったけれども、捜査機関の行った立証に対する評定を一般市民に求める裁判員制度などというものは、まさにアメリカ社会がそうなっているのではないかと思わせるように、法廷をますます以て法廷戦略としてのテクニカルな優劣を争わせる場にしてしまい、本作第二章のタイトルにもなっていた“正義”からも真実からも、裁判を遠ざけるものでしかない気がして仕方がないとも思った。言わば、法曹の敗北というべきものなのだけれども、それもやむなきほどに法曹界は硬直し形骸化しているということなのだろう。

 
by ヤマ

'18. 8.19. あたご劇場



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