『菊とギロチン』
監督 瀬々敬久

 噂に違わぬ強烈な作品だった。主義者であれ、官憲であれ、在郷軍人による自警団であれ、農民であれ、出てくる男どものことごとくが、ろくでなしばかりで少々うんざりしてきた。しかし、そのろくでなしたちのことごとくがまた痛みを負っていて、その痛みによって傷んでいるような気がしてならなかった。

 その意味では、先ごろ観たばかりの金子文子と朴烈でも痛烈に描かれていた関東大震災での朝鮮人虐殺の御先棒を担いでいた自警団と称する在郷軍人(大西信満)に、ありがちな悪役の役回りのみを負わせずに、絶望的な呪文とも言うべき「天皇陛下万歳」の連呼をさせていた描き方に感心させられた。彼ら皆人の痛みを生み出している源は何だったのかとの天皇制への問い掛けが痛烈だ。それと同時に、いかなる事態も即座に停止させてしまう呪文の強力さについて、端的に象徴的に示していて唸らされた。そして、大日本帝国を狂わせていった二大要因は、明治天皇下の日露戦争と大正天皇下の関東大震災だったというふうに作り手が観ているように感じた。

 それにしても、3時間を超える上映時間は些か冗長で且つ、今どきの映画らしからぬ音声の聴き取りにくさが気になった。穿ち過ぎかもしれないが、肝心の部分のほかは敢えて少々観辛くするとともに、素っ頓狂系の演出と冗長さによって撹乱することで劇場公開にこぎつけようとしたような気さえした。

 天皇制への告発とともに取り分け驚いたのは、関東大震災時の朝鮮人虐殺に関する正力松太郎の加担を明言していたことだ。当時、内務官僚として警視庁の要職にあったらしい正力は、後に読売新聞社主となった「日本の原子力の父」とも呼ばれる怪物だが、その加担に係る内情が事実であったとしてもギロチン社の古田大次郎(寛一郎)あたりが知り得る情報ではない気がする。だから、作中でも表沙汰にはならない形で描かれていた古田による正力松太郎(大森立嗣)の暗殺未遂事件は、瀬々監督による作劇上の創作のような気がするけれども、なかなか強烈だった。

 それ以降のギロチン社のメンバーの顛末や勝虎と三治のエピソード、花菊と夫とのエピソードなどは、『菊とギロチン』として特段に必要なものとも思えなかっただけに、3時間を超える上映時間にした意図をついつい勘ぐってしまうこととなった。実際のところ、上記二点がクローズアップされる形になっていれば、その上映可否を巡る動きが社会問題化した靖国 YASUKUNIどころでは収まらず、遥かに劇場公開が困難になっていた気がして仕方がなかった。

 それにしても、中濱鐵(東出昌大)が率いていたギロチン社にしても、村木源次郎(井浦新)による労働運動社にしても、『金子文子と朴烈』で描かれていた不逞社にしても、その結社名すら僕は知らずにいたが、当時は無政府主義を標榜する結社が雨後の筍の如く、ある種のブームのようにして生れていたようだ。両作ともにおいて、その時代を生きた若者たちの実物とされる写真がエンドロールで示されていたが、もし自分が大正末期の時代に生を得ていたとしたらと思うと、慄然とする思いが湧いた。

 数多あったらしきアナキスト結社のなかから敢えてフランス革命の処刑台からその名を採ったと思しきギロチン社を選び、女相撲の四股名を花菊としたうえで並べたタイトルは、仮名一文字を替えるだけで「菊をギロチン」となるわけで、何とも凄まじいものだと恐れ入った。




推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
https://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/19070703/
by ヤマ

'19. 7. 6. 美術館ホール



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