『海辺のポーリーヌ』(Pauline A La Plage)['83]
『満月の夜』(Les Nuits De La Pleine Lune)['84]
監督 エリック・ロメール

 確か“遅れて来たヌーベル・バーグの巨匠”だったか“ヌーベル・バーグ、最後の巨匠”だとかいう触れ込みで '80年代に持て囃されたエリック・ロメール脚本監督作品については、自分たちで上映した『満月の夜』を'87年に観て、翌'88年に『緑の光線』、'89年に『モード家の一夜』『友だちの恋人』『四つの冒険』、'92年に『獅子座』、'96年に『パリのランデブー』、'99年に恋の秋、'08年に三重スパイを観ているものの、気になっていた『海辺のポーリーヌ』は今に至るまで未見のままだったので、思わぬ機会が得られてよかった。

 おかげで“徹研(映画徹底研究会)”が三十年前に行った上映会のチラシを観賞済み映画ファイルに移し替えることができた。今どき「やっぱりロメールが好き💛」などという惹句を添えて「喜劇と格言劇」シリーズから四作品だけ上映してみても、いかほどの集客があるのかと不審に思い、このような中途半端な回顧企画よりも、近年とみに外国映画の秀作公開状況が悪化してきている高知の映画事情の改善とまでは行かなくても補完に努めてもらいたいとの思いが拭えなかったのだが、予想よりは多くの観客が足を運んでいたように思う。

 Aプログラムの2作で冒頭に示される格言は、『海辺のポーリーヌ』が「言葉多き者は災いの元」、『満月の夜』が「二人の妻を持つ者は心をなくし、二つの家を持つ者は分別をなくす」で、格言的には後者が興味をそそられるのだが、作品的には断然、前者が優れているように感じたのは、僕が後者のルイーズを演じたパスカル・オジェに殆ど魅せられなかったからかもしれない。格言に言う“二つの家を持つ者”がルイーズなら、さしづめ“二人の妻を持つ者”に当たると思しきオクターヴを演じたファブリス・ルキーニは先ごろ『アムール、愛の法廷』で最近の姿を観たばかりだ。三十年前の青年ぶりに感慨を覚えつつ、昔から僕の気に障っていた個性的な口調については、意外にも当時のほうがましだったことに驚いた。満月の夜に起こった思わぬ出来事という映画なら、僕は月の輝く夜にのほうが遥かに好きだ。

 先に観た『海辺のポーリーヌ』は、奇しくも前夜『伊藤くん A to E』(監督 廣木隆一)を観たところだったので、シナリオにありがちな“思わぬ出会い・再会”ということから始まる両作において大いに重なる部分に微苦笑しつつ、伊藤くん(岡田将生)ならぬアンリ(フェオドル・アトキーヌ)や彼と親しくなっていく女性たちに少々イラつきながら観ていたのだけど、意外と面白かった。

 28歳童貞のイケメンお坊ちゃん伊藤くんと違ってアンリは口八丁手八丁だったが、根底に抱えているものには相通じるところがあるような気がする。『伊藤くん A to E』では、作中「えらく女性目線だな、もっと男目線でもいいんじゃないか?」との台詞があり、なんだか作り手のエクスキューズのように思えて可笑しかったのだが、原作は女性に違いないと思ったら、脚本もそうだった。それなのに、妙に身につまされるようなところもあってドキッとしたけれど、『海辺のポーリーヌ』はまごうことなき男目線だと思った。

 そして、「若いときって、やっぱ大変というか、難儀だったよなぁ。」との感慨を誘われた『伊藤くん A to E』に対し、『海辺のポーリーヌ』では、格言にいう“言葉多き者”として余計な告げ口で騒動を来すピエール(パスカル・グレゴリー)のみならず、大人たちの幼稚さが目立ち、15歳のポーリーヌ(アマンダ・ラングレ)が最もしっかりしていて大人だったりするところが可笑しかった。

 それにしても、相通じる映画でありながら、愛と自由について雄弁に語り合う'80年代フランスと、愛も自由も一切口にしない2010年代日本の際立った対照というのは、時代の為せるものなのか、それとも今のお国柄の為せるものなのだろうか。戦後昭和の時代は、日本映画でも大いに愛と自由について語り合っていたような気がする。

 
by ヤマ

'18. 1.27. 美術館ホール



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