『恋の秋』(Conte D'automne)
監督 エリック・ロメール


 フランスの風土というものが強烈に印象づけられた作品である。ワインの産地ローヌ渓谷を舞台にした恋のお話だからというのではない。対人関係に対する感覚というものに、いかにもフランス的と感じられるものが文化的な基調として鮮やかに浮かび上がっていたからだ。

 今、フランスに留学中の鑑賞会の運営委員橋田康世さんが送ってよこした「フランスからの映画通信」にも“他人を気にしないフランス人”というフレーズがあったが、この映画に登場する男も女も徹底的に自分本位で、その自分を表現することにいささかの躊躇も遠慮もない。自分勝手というのとは違い、迷いや不安も勿論あるし、誰かのためにとか、理想のためにとかいう発想もある。でも、そこにおいて自分の感じることや欲求を率直に表現することには、何の迷いも遠慮も働かないということなのだ。そのことによって相手がどう思うだろうかとか傷つけはしないだろうかという配慮をすることは、むしろ相手を対等の存在として認めていない失礼をおかすことだと言わんばかりに自分を率直に表現する。そして、それをどう受け止めるかは、あくまで相手の選択であり、きちんと選択の機会を提供することこそが対人関係のマナーだと思っているように感じる。勿論それは感情を剥きだしに表現することではなくて、波風を恐れて明確に表現せずに避けることを断固として排したうえで、表現の仕方としては冷静さを志向するといったことだ。

 これは、日本で一般的に対人関係のマナーとされているものとは、随分と感覚的に異なる。僕自身は、どちらかというとフランス流に近い価値観と美意識を対人関係におけるマナーとして意識してきたつもりだけれど、それだけに余計に「フランス人には叶わない、これはもう文化の違いだろうな」という思いが強い。損して得とれみたいな姑息さがなくて、すっきりしているのだけど、こういう感覚の対人関係のなかで生きていくのは、やはり相当にタフなことだという気がする。そう言えば、フランス映画の恋人たちが、あれほど饒舌に愛を語りながら、優しさなどということを口にするのを観たことがないように思われるのに比べ、日本では愛が語られずに優しさが何ぞのように問題にされる。どちらが良い悪いの問題ではなく、まさしく文化の違いなんだろうと思う。そんなことを考えさせてくれたのは、この映画が本当に、人間関係におけるフランス文化の粋を極めていたからだ。

 映画の展開としては、ガーデン・パーティの場面からの登場人物たちの心の動きがスリリングで、その描写の的確さと脚本の見事さに舌を巻く。マガリがジェラルドとエチエンヌに出会う順番とその間合い、ジェラルドと交わしたわずかの会話の手応えによって急速に失われたエチエンヌへの関心や浮き立つ心に冷水を浴びせられたジェラルドとイザベルとの抱擁の目撃、改めてイザベルにジェラルドを紹介されて安堵と希望を得つつも、揺れ動く自分の心を持て余し、翻弄されたことへのいらだち、そして、その解消の仕方など。どれをとってみてもロメールの仕掛けと人間描写の真骨頂が窺える。さらにはマガリだけでなく、主な登場人物たちの心が総て迷走し、ラスト10分前でもこの人間関係がどういう形で収まっていくのかが読めないなかで、わずか10分できっちりとまとめあげてしまう上手さ。ヴェネチア映画祭で最優秀脚本賞を受賞したのも肯なるかな、という作品だった。
by ヤマ

'99. 5.28. 県民文化ホール・グリーン



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